中井久夫の次の文に最も端的に現れているが、この超自我の捉え方にやはり問題がある。これは伝統的に、例えばドゥルーズやデリダ、日本では憲法九条超自我論の柄谷行人も同様に間違っているということはあるが。
アラン・ヤングに言わせると、PTSDの症状はほかの病気にもある症状であり、PTSD特有の症状はないということです。そもそも神経症概念をDSM-Ⅲが捨てたということは、ある意味では正しいが半分しか正しくないのです。 なぜならば確かにフロイトは神経症の概念をつくった人ではあります。しかしフロイトの立てた神経症には三つあり、それは精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。精神病と神経症との境界は年々曖昧になってきています。昔は人格全体が犯されているものを精神病、人格が健康な部分が残っているものを神経症と明解に線を引いていたのですが、だんだんそれが怪しくなってきています。ヤングは「この撤廃は意味があるが、あとの二つの神経症をDSM-Ⅲは問題にしていない」と言っています。 |
現実神経症は、…普通には心因反応と言われているものです。あるいはDSM-Ⅳになってから出てきた、ASD(急性ストレス障害)もあります。外傷神経症はフロイトも挙げているけれどもそれほど問題にしていません。この後身がPTSDです。DSM体系の中から神経症を追放するのは、よく考えてやっていないということいなります。〔・・・〕 |
(外傷神経症は)古典的精神分析学と比べて何が違うかというと、古典的な場合は超自我・自我・エスという例の三審級の形になります。自我は両方の板挟みになっている形になります。抑圧の結果、夢・錯誤行為・無意識の存在の証拠として出したものは、皆防衛機制を通じて置換されたり象徴化されたりしたものです。 外傷神経症の特徴は、夢が全く加工されていないということです。山口直彦先生に教わったことでは、外傷神経症者の夢はレム期ばかりではなくノンレム期の夢もあるということです。侵入症候群と過覚醒と麻痺の症候群は自律神経系です。夢に加工とストーリーがなく、フラッシュバックでも変形がありません。何十年経っても同じものが出てくるのです。ツェズールという、ドイツの夢学者が名づけた「お話変わって」というスイッチングはふつうの夢の中ではしきりに行われますが、外傷夢にはこれがなくてスナップショットのようなものです。また毎日同じ夢を見るということは危機に直面しているということです。普通は日替わりメニューで同じ夢はみません。〔・・・〕 |
その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。例えば非常に原始的な防衛機制と言われる projective identification (投影性同一視) にせよ言葉で語られるものです。これは私が腹を立てているとき、あなたが怒っていると思うことです。自分の感情を相手に投影するのです。しかし解離は言葉で語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。 PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。 |
どうしてこのように変わったのでしょうか。ここからはスペキュレーションですが、今の精神科医はsociopsychobiological に診ていくべきであると言います。 フロイトの定式の一つ一つの言い換えです。発達の過程で社会をどう取り込むかということは、超自我というフロイトの言い方を近代化したものです。超自我は socio- です。 "psycho-" は自我に当たり、エスは "biological" に相当するとしましょう。これが一番変動しやすいものです。人体のほうは一〇万年ぐらい変わりません。だから人間は絶えずねじれ現象を起こしていると考えていいでしょう。〔・・・〕 |
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、1990年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学では非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
✖︎《古典的な場合は超自我・自我・エスという例の三審級の形になります。自我は両方の板挟みになっている形になります。》
✖︎《超自我は socio- です。 "psycho-" は自我に当たり、エスは "biological" に相当するとしましょう。》
この二つの文は明らかな誤謬だ。フロイト自身の記述の曖昧さにも確かに問題があるし、多くのフロイト学者もこの現在に至るまでいまだ中井久夫の捉え方のままなのだが、フロイトを真に読み込んだラカンあるいはメラニー・クラインの正式版は次のようになる[参照]。
もし、中井久夫曰くの《超自我は socio- 》とするなら、この超自我は前期ラカンの「父なる超自我」(象徴界の言語)であり、その底には「母なる超自我」(現実界の身体)がある。最低限、この二つの区別が欠かせない。
とはいえ最晩年のフロイトにおいて母は超自我自体になる。
心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
ーー高等動物にもある超自我、そして幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]とあるが、もちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。 |
母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
一般的にはフロイトの超自我は社会規範に関わるエディプス的父として捉えられてきたが、これは誤りであり、母への固着に関わる死の欲動の審級にある。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
おそらく主にこの二文からだろう、ラカンはこう言っている。 |
超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976) …………………………… |
死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
すなわち、《死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]》 (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
このラカン派の超自我の捉え方は純粋にフロイトを読み込んだら、必ずこうなるのであって、他方、ほとんどの標準的精神科医、多くのフロイト学者も含めて、さらには一般の哲学者や批評家はもちろん、いまだ中井久夫と同様の誤謬のままという不幸がある。
だが先に掲げた最晩年フロイトの『精神分析概説』にあるように、超自我は何よりもまず「欲動の固着」に関わり、原抑圧と等置しうる概念なのである。
抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕 この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[solchen Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege]。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』「症例シュレーバー」 1911年、摘要) |
ジャック=アラン・ミレールは、ラカンから引き継いだ最初のセミネールで、超自我と原抑圧の一致を断言しているが、これは上に見たようにフロイトの記述を素直に読めば必ずそうなる。 |
超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕 あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) |
そして先に掲げた『症例シュレーバー』の《原抑圧された欲動 [primär verdrängten Triebe]》とは《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年)と等価である。ーー《原抑圧は排除である[refoulement originaire…à savoir la forclusion. ]》(J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)
その意味で、中井久夫曰くの《サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです》の排除が、原抑圧自体あるいは超自我に関わるのである。さらに中井久夫が語っている現実神経症自体ーーこれは「現勢神経症」と訳されることが多いーー、原抑圧の病いの審級にある。
おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す[die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist, ]〔・・・〕 精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する[daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
|
中井久夫は、当時はフロイト学者でさえほとんど忘れていた現実神経症(現勢神経症)概念を見事に抽出してトラウマ論を展開している。
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。 目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収) |
これ自体は「さすが中井久夫!」と膝を打ちたくなる記述だが、いかんせん、超自我が現実神経症に関わる認識が抜けており、ひどく惜しまれる。フロイトラカンにおいて超自我自体が、幼児期のトラウマに関わることが把握されていれば、阪神大震災被災以後のトラウマ研究がいっそう優れたものになっただろうに。
繰り返せば、原抑圧=排除=固着=超自我であり、これがラカン用語であれば現実界のトラウマの穴である。 |
現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. ](Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
現実界の対象aは「超自我とのみ関係がある」とあるが、これが母であり、固着であり、穴すなわちトラウマである。 |
母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).] (Lacan, S10, 15 Mai 1963 ) |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
|
ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.] (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
超自我のポジションをボロメオの環に置けば、次の箇所になる[参照]。
一般には、超自我と自我理想(エディプス的父=父の名)が等置されてきた。だがふたたび強調すればーーフロイトを少しでも深く読み込めばーー、超自我と自我理想はまったく別物なのがはっきりとわかる➡︎「フロイトとラカンの超自我」
※付記 なおフロイトにおいて原抑圧がトラウマに関わることは次の文に現れる。 |
われわれには原抑圧[Urverdrängung」、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着[Fixerung]が行われる。すなわち、その欲動の表象代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。 |
Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. 〔・・・〕 この欲動代理は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、よりいっそう自由に豊かに展開する。それはいわば暗闇に蔓延り[wuchert dann sozusagen im Dunkeln ]、極端な表現形式を見いだし、異者[fremd]のようなものして現れる。die Triebrepräsentanz sich ungestörter und reichhaltiger entwickelt, wenn sie durch die Verdrängung dem bewußten Einfluß entzogen ist. Sie wuchert dann sozusagen im Dunkeln und findet extreme Ausdrucksformen, […] fremd erscheinen müssen(フロイト『抑圧』1915年) |
異者[fremd]とあるが、これがトラウマであり、ラカンのリアルな対象aである。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
異者としての身体 [Fremdkörper]は「異物」とも訳されてきた。この概念自体、中井久夫は触れているのである。 |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
ゆえにいっそう惜しまれるのである、この異物が超自我に関わることが把握できていないのが。どうしてもそのトラウマ研究に論理的矛盾が生じてしまっている。 |
中井久夫は死の本能(死の欲動)についても外傷神経症に関わることをしっかり記述している。 |
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさせたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年) |
だが、この死の欲動が超自我の欲動なのである、中井久夫曰くの《超自我は socio- です》、つまり社会的規範どころではまったくないのは、上のフロイトあるいはラカンが示しているように。 |