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2022年12月19日月曜日

必ず起こる「誰にも思い寄らないこと」

 

ははあ、こんなのが残ってるんだな





安倍晋三はとっても刷り刷り派だったが、結局、岸田文雄もまったく同じだからな


「子どもたちの世代にツケを回すなという批判がずっと安倍政権にあったが、その批判は正しくないんです。なぜかというとコロナ対策においては政府・日本銀行連合軍でやっていますが、政府が発行する国債は日銀がほぼ全部買い取ってくれています」


「みなさん、どうやって日銀は政府が出す巨大な国債を買うと思います? どこかのお金を借りてくると思ってますか。それは違います。紙とインクでお札を刷るんです。20円で1万円札が出来るんです」(安倍晋三新潟県三条市での講演ーー2021年7月10日)



しかしまだ起こらないね、「誰にも思い寄らないこと」だが、必ず起こるハイパーインフレでのチャラ化が。


◼️荷風戰後日歴 永井荷風昭和廿一年

二月廿一日。晴。風あり。銀行預金拂戻停止の後闇市の物價また更に騰貴す。剩錢なきを以て物價の單位拾圓となる。

三月初九。晴。風歇みて稍暖なり。午前小川氏來り草稿の閲讀を乞ふ。淺草の囘想記なり。町を歩みて人參を買ふ。一束五六本にて拾圓なり。新圓發行後物價依然として低落の兆なし。四五月の頃には再度インフレの結果私財沒收の事起るべしと云。去年此日の夜半住宅燒亡。藏書悉く灰となりしなり。


日露戦争は外債で戦い、その支払いのために鉄道、塩、タバコを国の専売として抵当においた。太平洋戦争は、国民の貯蓄を悪性インフレによってチャラにすることで帳尻を合わせたが、それは戦時中には誰にも思い寄らないことであった。戦勝による多額の賠償の幻想が宙を漂っていた。(中井久夫「戦争と平和ある観察」2005年)


なんでまだなのかね、不思議でならないよ


◼️日本の財政関係資料 令和4年10月 財務省 PDF




なあ、こんなに頑張ってるのにな




何はともあれ、最終的には食い物だからな、餓死しないように気をつけなくちゃな、日本のみなさん!


(参考)ハイパーインフレーション②(第2次世界大戦後の日本)

○ 第2次世界大戦時の巨額の軍事費調達のために多額の国債が発行された結果、終戦直前には債務残高対GNP比が200%程度にまで増大。この巨額の国債発行は日銀引受けによって行われたことから、マネーサプライの増加等を通じて、終戦直後にハイパーインフレーションが発生。


○ 政府は、ハイパーインフレーションに対応し、債務を削減する観点から、「預金封鎖」・「新円切替」を柱とする金融危機対策を講じるとともに、「財産税」・「戦時特別補償税」を柱とする財政再建計画を立案・公表。ハイパーインフレーションやこれらの施策により、債務残高対GNP比は大幅に低下したが、同時に国民の資産(特に保有国債)も犠牲になった。


○ こうした教訓に基づき、財政法上、「非募債主義(4条)」や「国債の日銀引受け禁止(5条)」が定められた。


<預金封鎖・新円切替> 

● 全金融機関の預貯金を封鎖し、引出しを原則的に禁止。生活費や事業資金につ いて一定額のみ引出しを承認。

● 日銀券を「旧券」として強制通用力を喪失させ、流通中の旧券を預貯金等に受け入れ、既存の預金とともに封鎖。「新券」を発行し、新円による預金引出しを認める。


<財政再建計画> 

● 「財産税」:通常生活に必要な家具等を除く個人資産(預貯金、株式等の金融資産 及び宅地、家屋等の不動産)に対して、一回限りの特別課税。 

● 「戦時補償特別税」:戦争遂行のために調達した物品等の軍や政府に対する戦時 補償請求権に対して100%課税を行うことで、戦時補償の支払いを打ち切り。


(参考)財産税及び戦時補償特別税による収入は5年間累計で約487億円(昭和21年時点: 一般会計税収約264億円、個人及び法人企業の金融資産は約3,806億円)。



<ハイパーインフレーションの影響> 

● 「預金封鎖が父を変えてしまった」。漁師の父親は酒もたばこもやらず、こつこつ貯 金し続け、「戦争が終わったら、家を建てて暮らそう」と言っていた。だが、預金封鎖 で財産のほぼすべてを失った。やけを起こした父は海に出なくなり、酒浸りに。家族に暴力も振るった。イネ(娘)は栄養失調で左目の視力を失い、二人の弟は餓死した。

● 愛知県の松坂屋名古屋店は商品も少なく、物々交換所に様変わりした。インフレで 物価は高く、必要な物を交換で入手できる場として重宝された。着物を持ってきて食料を欲しがる人もいれば、鍋釜を探す人もあった。同店従業員が交換を仲介し 手数料を得た。


(出典)『人びとの戦後経済秘史』(東京新聞・中日新聞経済部 編 2016年)


(「平成財政の総括」財務省、平成31年4月17日、pdf



………………………



一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく

私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)

私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくない…。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。〔・・・〕


最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年『家族の深淵』所収)