このブログを検索

2022年12月20日火曜日

常に戻ってくる「身体の記憶」

 

このギターデュオのBWV 914 フーガ、とってもいい、鼻の奥がツンときたよ


◼️

Fugue BWV 914 by J. S. Bach played by DueinDuo | Siccas Media



ーー二人の若い男前が眼差しを交わし合っている張り詰めた空気感もとってもいい。


で、戻ってくるんだ、グレン・グールドのあの演奏が。


◼️

Glenn Gould - Bach Toccata in e minor BWV 914 - Fugue




すべてがそうであるわけではないが、いくつかのグールドは常に戻ってくる。特に高校時代に聴いたもの多くは


それはカール・リヒターのマタイやロ短調ミサ、いくつかのカンタータと同じように。あるいはヘルムート・ヴァルヒャのオルガンの音のように。演奏の好き嫌いということとは関係なしに。もう50年近くたっているのに。


音楽だけだね、こういうことがあるのは。文学などにそういうことがあっても強度が違う。匂いのようなものが回帰する感じははるかに少ない。


遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるあのレミニサンス感覚は、私の場合、音楽以外は匂いだ。女の声もあるが、あれは音楽の一種だ。



プルーストに出会う以前に読んで衝撃を受けたーー何度も訪れる感覚が実に的確に描写されているーー吉行淳之介の次の文はいつまでも貴重だ。


長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

 

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年)



それと30歳過ぎに行き当たったロラン・バルトの次の文も。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕

幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST1977年)




私の中井久夫は結局、ここなんだよな。ほかの中井久夫は重要度がはるかに劣る。肝腎なのはレミニサンスの中井久夫、あるいは詩人の中井久夫、もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》中井久夫だ。


ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。


それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。


金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。


二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。


この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口にあった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。(中井久夫「世界における索引と徴候」初出「へるめす」第26号 1990年7月『徴候・記憶・外傷』2004年所収)



この「へるめす」掲載の文を京都府立植物園の裏手の北山通りにある付属図書館で30年前ふと読んだときは衝撃を受けたね。そしてその帰り道に寄った北野天満宮で遭遇した巫女修行の少女の姿態と細く澄んだ声とともにある。


佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。〔・・・〕にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』)



と、引用すると芋蔓式に別の詩句が想起されるな




午後の日射し  カヴァフィス 中井久夫訳


私の馴染んだこの部屋が

貸し部屋になっているわ

その隣は事務所だって。家全体が

事務所になってる。代理店に実業に会社ね


いかにも馴染んだわ、あの部屋


戸口の傍に寝椅子ね

その前にトルコ絨毯

かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ

右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥

中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ

大きな籐椅子が三つね

窓の傍に寝台


何度愛をかわしたでしょう。

窓の傍の寝台

午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

あの日の午後四時に別れたわ

一週間ってーーそれからーー

その週が永遠になったのだわ




ああ、また何かが匂ってきたよ


すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。(夏目漱石『夢十夜』)





強かろうと弱かろうと、重かろうと軽かろうと、ユリ科植物の香りは、自然の中でもっとも暗示に富み、もっとも心惑わせる。海百合 lis de merと呼ばれるパンクラスから貴重なバラ色のアマリリスまで、池に咲く百合であるヒヤシンスから、インカ百合、聖ヨハネの百合、聖ヤコブの百合、スーラの百合、マルタゴン・リリーそして野生の百合にいたるまで、用心深い人びとは寝室からそれらを遠ざけるが、それらすべては女性に、そして女性の奥深い親密さ l'intimité profonde de la femme に結びつき、どれほどの甘美さを凝集していることか。(マンデイアルグ, Liliacées langoureuses aux parfums d'Arabie : Photographies de Irina Ionesco, préface)


………………



レミニサンスとは、フロイトラカンにおいてはトラウマの回帰、異者としての身体の回帰だ。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)



とはいえトラウマは「身体の出来事」を意味し、それへの固着と反復強迫だ。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


ある一定以上の強度をもった身体の出来事は固着して、その固着の反復が起こる。これがトラウマのレミニサンスだ。フロイトは上で「不変の個性刻印」と言っているが、この身体の出来事としてのトラウマは喜ばしい出来事だって当然ある。


次の中井久夫の文はとても役立ったね、「外傷性記憶」を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」とした定義は。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)



そしてフロイトの異物(異者としての身体[Fremdkörper])への言及。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーー《主として鮮明な静止的視覚映像》とあるが、喜ばしい記憶のレミニサンスは、先に掲げたロラン・バルトのいう「失われた時の記憶」「身体の記憶」をめぐる文にあるように、匂い、声の響き、光なども多いんじゃないかね、少なくとも私の場合はそうだ。身体の記憶のレミニサンス(異者としての身体のレミニサンス)、これが最も簡単な言い方においての「見出された時」だ。


かりに喜ばしき身体の記憶の回帰でも心的痛みや驚きの不快があるのがレミニサンスだろうけど。

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。


je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)



プルーストの異者[l'étranger]の回帰が、厳密にフロイトラカンの異者としての身体[le corps étranger]のレミニサンスと同じだと言うつもりはないが、ほぼ同じなのは間違いないね。


彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンスにふけっていた[j'étais froid devant des beautés qu'ils me signalaient et m'exaltais de réminiscences confuses]〔・・・〕そして戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった[je m'arrêtai avec extase à renifler l'odeur d'un vent coulis qui passait par la porte. « Je vois que vous aimez les courants d'air », me dirent-ils. ](プルースト「ソドムとゴモラ」)

わたしたちは生がリアルなものだと信じていない、なぜなら忘れてしまっているから。けれども古い匂を嗅いだら、突如として酩酊する[De sorte que nous ne croyons pas la vie réelle parce que nous ne nous la rappelons pas, mais que nous sentions une odeur ancienne, soudain nous sommes enivrés;] (プルースト書簡 Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)




次の文章群はセットだ、「決定的な」と言いたいぐらいの今の私にとってのアリアドネの糸だ。これからも常に戻るだろうセットだ。


昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil] のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)

私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章「Studium」)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)


もちろんここで、先に掲げた初期フロイトの《トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす》が加わる。



補足として次の二文も掲げておこう。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)