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2023年1月10日火曜日

言葉の監獄


 坦々麺    谷川俊太郎


何もかもつまらんという言葉が

坦々麺を食べてる口から出てきた

俺は本当にそう思ってるのかと

心の中で自問自答してみるが

詩人の常ではかばかしい答えはない

言葉は宙に浮いている でなきゃ

地下で縺れている

俺はそれを虚心に採集する

何もかもつまらんもそういう類いか

本心も本音も言葉の監獄につながれて

いち足すいちはにいいと言わせて

みんなの口角に微笑の形をつくらせる

笑みが本心であろうとなかろうと

無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く

ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を

頭の中でいじくり回してる奴が俺だ

そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで

思いがけず口から飛び出した言葉が

真偽を問わず詩を始めてしまう

坦々麺を食べながら詩人は赤面する


ーー『詩に就いて』所収(思潮社、2015年04月30日発行)




俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)




言葉に愛想を尽かして と

こういうことも言葉で書くしかなくて

紙の上に並んだ文字を見ている

からだが身じろぎする と

次の行を続けるがそれが真実かどうか


これを読んでいるのは書いた私だ

いや書かれた私と書くべきか

私は私という代名詞にしか宿っていない

のではないかと不安になるが

脈拍は取りあえず正常だ


ーー「朝」より、谷川俊太郎『詩に就いて』所収(2015年)


…………………



フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage](Lacan, S3, 16 mai 1956)

言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ](Lacan, S25, 15 Novembre 1977)


言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel](ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)

言語はレトリックである。 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしない[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)



……………………



経験科学の真理にかんしては、「確証可能性 confirmability」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性 falsifability」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争があった。ポパーの考えでは、科学法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。


ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収、1983年)

たとえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。考えてみればすぐわかることだが、このような科学史(メタ科学)的認識そのものが、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいいる。科学史をそのように変化させたののは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事態である。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的(セルフ・リファレンシャル)である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年)


常にニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud… Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)