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2023年4月28日金曜日

引き出しの奥の未知なるもの

 

このところ 「引き出しの奥」(Evernote)に仕舞い込んである大江健三郎の文を探し出して眺めているのだが、その備忘録には初期大江と吉行淳之介がセットになっていることが多いね。大学時代、一般にはまったく異質と一見思われるかもしれないこの2人の作家を交互に読む時期があったせいかもしれないが。



ある夕暮れ、Jは国電中央線の下り快速電車に乗っていた。かれのすぐまえに、かれと同年輩の娘が、かれと直覚に、そしてかれの胸、腹、腿のあわせめに、その体をおしつけて立っていた。Jは娘を愛撫していた。右手は娘の尻のあいだの窪みからその奥にむかって、左手は娘の下腹部の高みから窪みにむかって。そしてJのむなしく勃起した男根は女の腿の外側にふれていた。Jと娘との身長はほぼおなじだった。Jの吐く息は薔薇色に上気している娘の耳朶の生毛をそよがせつづけた。はじめのうちJは恐怖におののき息づかいを荒かった。娘は叫ばないだろうか? その自由な二本の腕でJの腕をつかみ周囲の人々に救いをもとめないだろうか? 最も激しく恐怖しているときJの性器は最も硬くなって娘の腿にむかってきつくおしつけられている。Jは娘の端正な横顔をいかにもまぢかに見つめながら深甚な恐怖のうちにたゆたう。皺はないが短い額、短く上向きに反っている鼻梁、コオフィ色の生毛のはえた皮膚のしたの大きい唇、しっかりした顎、それに色素の濃すぎるせいで全体が黒っぽく曇って見える立派な眼、それはほとんどまばたくことがない。Jは粗い手ざわりのウールのスカートごしに愛撫しつづけながら、不意に失神しそうになる。もしいま娘が嫌悪か恐怖の叫び声をあげれば自分はオルガスムにいたるであろうと感じる。かれは懼れのように、あるいは、熱望のように、その空想に固執する。しかし娘は叫ばない。唇はかたくひきしめられたままだ。そして舞台に切られた垂れ幕がおりるように、瞼が不意にきつく閉じられる。その瞬間、Jの両手は尻と腿の拒否から自由になる。柔らかくなった尻の間をなぞって右手はその奥にとどく。ひろがった腿のあいだを左手は正確に窪みにいたる。


そしてJは恐怖感から自由になる、同時にかれ自身の欲望も稀薄になる。すでにかれの性器は萎みはじめている。かれはいま義務感あるいは好奇心のみにみちびかれて執拗な愛撫をつづけているだけだ。そのときJは、ああ、いつものとおりだ、こういう風にすべて容認され、この状態をこえたひとつの核心にいたることが不可能となるのだ、というようなことを冷たくなってくる頭で考えていたのだった。そこまでは、かれが痴漢になることを決意した日から幾度となくくりかえされた、おなじ様式の一過程にすぎなかった。やがてJは自分のふたつの指先に、その見知らぬ他人の孤独なオルガスムを感じとった。(大江健三郎『性的人間』1963年)



電車の中は、そう混雑していたわけではない。井村は窓際に立っていた。傍らに、人妻風の二十七、八歳にみえる女性が立っていた。〔・・・〕青春の日々のことが、鼻の奥に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。


その瞬間から、傍らの女の存在が、強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動かすときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く弧線とか、胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻の量感とか……、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一つの集積となって覆いかぶさってきた。


いつの間にか、彼は青春の時期の井村誠一になっていた。肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は軀を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わらず女は軀を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。次の瞬間、彼はその肘を離し、躊躇うことなく、女の腿に掌を押し当てた……。〔・・・〕


女は位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外を向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は腿を曲げて拳を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。


窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っている。


その眼と唇をみると、彼は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに軀を彼の方に向け直した。その溜息と軀の捩り方は、あきらかに共犯者のものだった。〔・・・〕


大学生の頃、井村がしばしば体験した状況になったのである。不思議におもえるほど、女たちは井村の掌から軀を避けようとしなかった。一度だけ、手首を摑まれて高く持ちあげられたことがあったが、それ以外は女たちは井村の掌を避けようとせず、やがて進んで掌に軀を任せた。


当時、井村誠一は童貞であった。彼は掌に全神経を集め、その掌に未知なるものへの憧れを籠め、祈りさえ籠めて押し当てた。


そして、掌の当る小部分から、女体の全部を、さらには女性という存在全部を感じ取ろうとした。彼女たちが軀を避けなかったのは、彼の憧れを籠めた真剣さ、むしろ精神的といえる行為に感応したためか。


あるいは、誰にも知られることのない、後腐れのない、深刻で重大な関係に立至ることもない、そういう状況の中で快楽を掠め取ることには、もともと多くの女性は積極的姿勢を示すのであろうか。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年)