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2023年4月28日金曜日

男と女のおもてうら

 

前回は大江健三郎と吉行淳之介のセットを引用したが、引き出しの奥にしまってあった次の吉行淳之介とジャック=アラン・ミレールのセットもいいね、失念していたが。


大人になった男が、ワイダンをするには、いろいろ理由がある。


その一つは、それが、最も無難な話題であるためだ。男というものは、社会に出て、辛い生活をしながら生計を立てていかねばならない。そして、社会生活で、最も心を悩ますのは対人関係である。うっかりした話題を出すと、さしさわりが起る。ワイダンをやっていれば、無難である。下手なワイダンは困りものだが、巧みなワイダンに顔をしかめるのは、偽善者ということに、大人の世界ではなっている。


それに、ワイダンというものは、じつはけっしてナマナマしいものではなく、これほど観念的なものはないといってもよいくらいのものだ。男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介『不作法紳士―男と女のおもてうら―』1962年)


古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する[but rather fantasizing that the man in question is fucking some other woman who isn't her.]。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。〔・・・〕


この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない……[the man, her man, her husband, knows nothing about it. He doesn't know that he's fucking another woman every night… ]。これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm, Lacan. com 2009)



……………



これは上のものと「直接的には」セットにはなり難いかもしれないが、最初期の吉行を付け加えておこう。


粘りつく、湿潤な男たちの眼から逃れることばかり考えていたときのあけみは、娼婦の街は乾燥した地帯として映ってきたのだった。しかし、いまのあけみにとって、この街は一層湿潤な場所になってしまったのだ。 


あけみは、こう考える。自分は、男の傍らで快楽に喘ぐ場合も、自分の内側に湧き上がるものを相手に向ってそそごうとはしない。両腕を自分の背後で綯い合せながら、自分一人で快楽のうちに溺れてゆこうとしている。このとき、男は単に軀に刺激を与えるために作られた、精巧な道具に過ぎないではないか。自分は、心を空白にして、暗い海の底でただ触手をひらひらさせているだけなのだ。 


そのように考えることによって、あけみは身のまわりを取囲まれてしまった湿潤さから気持を救おうとしているのだ。またそのことは、この街の外の場所にもこの街にも棲み難くなった彼女が、無意識のうちに、この街で生きつづけて行ける感覚を処理し適合させてゆく方向に進みかけていることを示している。それは、こういう場合、死の方向を選ばなかった以上、人間にとって自然に自己保存の本能的なものとして働く。 


あけみは、男たちの下で痙攣しかすかな声を洩らしはじめて以来、自分の顔つきが徐々に変りはじめて、いまではもうはっきりと「娼婦の顔」になってしまったのではないか、という不安に捉われる。(吉行淳之介『原色の街』1951年)


※フロイトの「娼婦愛」の記述については参照➡︎男と女のあいだの裂け目