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2023年4月29日土曜日

女が獰猛にできているのは理の当然

 


女はやさしい形をしているが、だからといって中身までやさしいとはかぎらない。軟らかくて力が弱くできているから、生き延びるためにはかえって内側は獰猛にできていることになるのは、理の当然と私は思っている。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』1978年)



この指摘は大事だね。ま、言ってしまえば、ニーチェの次の文の変奏かもしれないが、より具体的で。


完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ 〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……

das vollkommne Weib zerreißt, wenn es liebt... Ich kenne diese liebenswürdigen Mänaden... Ach, was für ein gefährliches, schleichendes, unterirdisches kleines Raubtier! Und so angenehm dabei!... 〔・・・〕


ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである[Ein kleines Weib, das seiner Rache nachrennt, würde das Schicksal selbst über den Haufen rennen. – Das Weib ist unsäglich viel böser als der Mann, auch klüger; Güte am Weibe ist schon eine Form der Entartung... ](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「たんなる悪意の者Seele nur böse」であるにとどまるが、女は「悪 schlecht」(何をしでかすかわからない)だから。

Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es hasst: denn der Mann ist im Grunde der Seele nur böse, das Weib aber ist dort schlecht.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)



…………………



大学時代はよく吉行淳之介を読んだ、女友達がひどい吉行ファンだったということもあるけど。



その女を、彼は気に入っていた。気に入るということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ待つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。(略)


現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には、巻込まれまいと堅く心に鎧を着けていた。……交渉がすべて遊戯の段階にとどまると考えるのは誤算だが、……その誤算は滅多に起こらぬ気分になってしまう。(吉行淳之介『驟雨』1954年)


「あたしを嫌いなくせに。あたしだって好きじゃない」


その言葉が、奇妙に僕の欲情を唆った。僕は娘の顔を眺めた。うっすらと荒廃の翳が、その顔に刷かれていた。僕は娘の躯を眺めた。紡錘形の、水棲動物めいた躯が衣裳のうえから感じられた。(吉行淳之介『焔の中』1956年)


その日、私はしずかに軀を秋子の軀に寄り添わした。傷ついた二匹の獣が、それぞれ傷口を舐めながら、身を寄せ合い体温を伝え合っている形になることをおそれまい、と私は思った。秋子もしずかに私を受容れた。私は全く口をきかなかったが、私は彼女の軀と沢山の入り組んだ会話を取りかわした。荒々しい力を加えていた時には分らなかったさまざまの言葉が、彼女の軀から私の軀に伝わってきた。(吉行淳之介『娼婦の部屋』1959年)


露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。

「縛って」

その声が、彼をかえって冷静に戻した。

「やはり、その趣味があるのか」

京子は烈しく首を左右に振りながら、言った。

「腕を、ちょっとだけ縛って」

畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣があり、その傍に寝衣の紐が二本、うねうねと横たわっている。

京子の両腕は一層強力な搾木となる、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年)



でも1964年の『砂の上の植物群』までだな、後年は軽いエッセイ大量生産だけでなく、小説でもいわゆる「中間小説」を書くようになって職業作家になってしまった。



小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。

(……それでは食えないので、小説以外の雑文(エッセイ)を書く。……)ところが、私はそのような文章においては、自分自身以外の読者というものをはっきり頭に置いて書くことができる。いかにも、自分は職業に従事しているという心持ちになれる。(吉行淳之介全集 第12巻)



女にやたらにモテるようになったのもいけないんだろうよ。表層的にはそれまでの小説に滲み出ていた幼年期のひどい傷が癒えたように見えた。


芥川賞とって売れっ子になってからも、しばらくは《あたかも癒やされた傷口をあらたにひき裂くかのよう》なところがあったのだけれど。



放蕩息子の家出     リルケ


ふいに視つめることだ、優しく、宥和のまなざしで、 

出発点に立つように、近くから。

そして予感のうちに見ぬくこと、

幼年時代をふちまで満たしていたあの悩みが、

どんなに個性もなく、 

すべての人びとにわたって過ぎていったかを。 

それから、それでも立ち去ることだ、手から手をふりほどき、 

あたかも癒やされた傷口をあらたにひき裂くかのように、 

そして立ち去ること、どこへ? 定かでないところへ、 

はるか遠く血縁のない暖かな国へ、 

あらゆる振舞いの背後に、書割の庭か塀のように 

無関心のままでいる、そんな国へ。 

そして立ち去ることだ、なぜに? 衝動から、本性から、 

焦燥から、 おぼろげな期待から、

無理解から、無分別から。 


auf einmal anzuschauen: sanft, versöhnlich

und wie an einem Anfang und von nah

und ahnend einzusehn, wie unpersönlich,

wie über alle hin das Leid geschah,

von dem die Kindheit voll war bis zum Rand - :

Und dann noch fortzugehen, Hand aus Hand,

als ob man ein Geheiltes neu zerrisse,

und fortzugehn: wohin? Ins Ungewisse,

weit in ein unverwandtes warmes Land,

das hinter allem Handeln wie Kulisse

gleichgültig sein wird: Garten oder Wand;

und fortzugehn: warum? Aus Drang, aus Artung,

aus Ungeduld, aus dunkler Erwartung,

aus Unverständlichkeit und Unverstand:



…………………



吉行はグレアム・グリーン『復讐』を引きつつ次のようにコメントしている。


ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)

これでは、まるで復讐の武器として小説を選んでいる印象を与えるが、それだけのことではあるまい。少年のころ、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。そして、例外はあるにしても、その種の能力はしばしば、病弱とか異常体質とか極度に内攻する心とか、さまざまなマイナスを肥料として繁ってゆく。そして、そういうマイナスは、とくに少年期の日常生活において、大きなマイナスとして作用するものだ。さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。〔・・・〕

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。〔・・・〕

一人前の作家として世間に認められたとき、「遠因」が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。〔・・・〕しかし、グリーンもそんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)



ここでの吉行は、《一人前の作家として世間に認められたとき、「遠因」が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。しかし、そんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう》と書くことで、疑いようもなく自己批判(自己吟味)している。


なお、埋めることのできない深い暗い穴とは、語彙的にはラカンの享楽剰余享楽の関係である。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは享楽の穴と剰余享楽の穴埋めなのである[petit a est …le trou (de jouissance) et le bouchon (du plus-de-jouir)]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


穴とはトラウマの穴だが、喪失をも意味する。


剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


この穴埋めし得ない享楽の穴をラカンはダナイデスの樽と言った。


享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ](Lacan, S17, 11 Février 1970)




この穴がラカンのリアルな主体である(フロイトによる、ひとがみな抱えている欲動のトラウマと等価[参照])。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)

ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme. Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place]  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)

人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



………………


※付記


数多くの文学賞審査員をしていた吉行は、江藤淳から「文壇の人事担当常務」と言われた。さらに金井美恵子に拠れば、彼女は本を書く前から淳之介に「泉鏡花賞」をくれると言われたそうだ(金井の同賞受賞は1979年)。