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2022年10月10日月曜日

男と女のあいだの裂け目

 

性欲動の本性」より引き続く

◼️愛されると同時に欲望されたい女たち

《愛されると同時に欲望されたい[être désirée en même temps qu'aimée]》(Lacan, E694, 1958)、これが女たちの願いである。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus 2010

フロイトが示した女性の対象選択は愛と欲望の一致であり、男性の対象選択は、愛と欲望の分離である。ラカンはこれを「ファルスの意味作用」で取り上げた。


だが「愛される」というフレーズを強調しよう。「愛される」とは女性の愛の被愛妄想的多様性を示している。愛されるために愛することが、おそらく女たちの座右の銘である(ここで思い出そう、フロイトが見事に注釈したことを。捨てられることに対する女性の感受性の強さを)(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010




◼️愛する場では欲望しない、欲望する場では愛しえない男たち

フロイトの目くらめく形式化がある、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない》。われわれは言うことができる、これが愛の裂け目の真の定式だと[cette formulation fulgurante de Freud : « Là où ils aiment, ils ne désirent pas, et là où ils désirent, ils ne peuvent aimer. » On peut dire que c'est là vraiment qu'est donné la formule du clivage de l'amour]   (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 22 MARS 1989 )



◼️愛する必要のない対象を求める男たち

心的インポテンツ[psychischer Impotenz]に関する精神分析的研究は、すでに何人かの作家によって行われ、発表されている。〔・・・〕

その最も普遍的な内容は決して克服されることなく、この病因的素材の中で重要な役割を果たすが、それは母や姉妹に対する近親相姦的な固着[inzestuöse Fixierung an Mutter und Schwester]である。〔・・・〕


この種の男は、愛するとき欲望しない。欲望するとき愛しえない「Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben]。

彼らは、愛する対象から官能を遠ざけるために、愛する必要のない対象を求める。そして近親相姦を避けるために選ばれた対象が、避けるべき対象を思わせるしばしば目立たない特徴を持つとき、「感受性コンプレクス」と「抑圧されたものの回帰」の法則に従って、心的的インポテンツの特異な失敗が起こるのである。

Sie suchen nach Objekten, die sie nicht zu lieben brauchen, um ihre Sinnlichkeit von ihren geliebten Objekten fernzuhalten, und das sonderbare Versagen der psychischen Impotenz tritt nach den Gesetzen der »Komplexempfindlichkeit« und der »Rückkehr des Verdrängten« dann auf; wenn an dem zur Vermeidung des Inzests gewählten Objekt ein oft unscheinbarer Zug an das zu vermeidende Objekt erinnert. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第1章、1912年)



◼️男における敬愛する女と性的対象の分離

男はほとんど常に、女性への敬愛を通しての性行動に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象に対してのみ十全なポテンツを発揮する[fast immer fühlt sich der Mann in seiner sexuellen Betätigung durch den Respekt vor dem Weibe beengt und entwickelt seine volle Potenz erst, wenn er ein erniedrigtes Sexualobjekt vor sich hat, ](フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第2章、1912年)



◼️心的インポテンツの一般化

心的インポテンツ[psychische Impotenz]は考えられている以上にはるかに広く存在し、この作用が実際に文明化された人間の愛の生をある程度特徴づけている。


心的インポテンツの概念を拡大し性交の失敗に限定しないなら、すべての男性をここに加えうるかもしれない。つまり、行為には失敗しないが、行為から特定の快感を得ずに行う男性、この状態は人が考えるより一般的である。…この類推として膨大な数の冷感症の女性[frigiden Frauen]も加えうる。(フロイト『性愛生活がだれからも貶められることについて』第2章、1912年)




◼️娼婦愛とマザーコンプレクス(母への固着)

男児は、性行為の醜い規範から両親を例外として要求する疑いを抱き続けることができなくなったとき、彼は皮肉な正しさで、母親と売春婦の違いはそれほど大きくなく、基本的には母親がそうなのだと自分に言い聞かせるようになる。……娼婦愛…娼婦のような女を愛する条件はマザーコンプレクスに由来するのである。

Er vergißt es der Mutter nicht und betrachtet es im Lichte einer Untreue, daß sie die Gunst des sexuellen Verkehres nicht ihm, sondern dem Vater geschenkt hat. (…) 

Dirnenliebe…die Bedingung (Liebesbedingung) der Dirnenhaftigkeit der Geliebten sich direkt aus dem Mutterkomplex ableitet. (フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年、摘要)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




◼️男たちのレスキューファンタジー

(ある種の男にとって)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる[Weib zuerst übersehen oder selbst verschmäht werden kann, solange es niemandem angehört, während es sofort Gegenstand der Verliebtheit wird, sobald es in eine der genannten Beziehungen zu einem anderen Manne tritt.](フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910年)

この類型の愛する男たちにおいて、すべての観察者を最もギョッとさせるのは、彼らは愛する対象としての女を「救い出そう=レスキュー」rettenと駆り立てられていることである。男は確信している、女が彼を必要としていると。彼なしでは女はすべての道徳的コントロールを失い、痛ましい水準に堕落してしまうと。Am überraschendsten wirkt auf den Beobachter die bei den Liebenden dieses Typus sich äußernde Tendenz, die Geliebte zu » retten«. Der Mann ist überzeugt, daß die Geliebte seiner bedarf, daß sie ohne ihn jeden sittlichen Halt verlieren und rasch auf ein bedauernswertes Niveau herabsinken würde.(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910年)


愛と欲動のあいだの永遠の分裂は、フロイトにとって大きな問いであり、二つの論文、『男性における対象選択のある特殊な型について 』と『性愛生活が誰からも貶められることについて』はそれに捧げられている。両方とも男の視野からの問題を観察している。〔・・・〕

男たちにおいて、マドンナと娼婦のあいだのよく知られた対比がある。〔・・・〕

妻を尊敬する超因習的な夫たちがいる。彼らはしばしばあまりに妻を尊敬しており、心理学的インポテンツになる。尊敬の仮装の下に、禁じられた母の影が愛された妻を覆っている。したがってどんな性的接近も不可能になる。しかしこの男のインポテンツは娼婦の下に行ったらまったく消えてなくなる、尊敬が消滅するのをともなって。

振り子は他のほうに振れるのである。というのは妻-母が褒め讃えられるように、娼婦としての女は貶められるから。このコンテキストにおいて、われわれは典型的な男の幻想に出会う。すべての娼婦によく知られているメイルファンタジー[male fantasy]だ。つまり女のレスキューファンタジーである。娼婦の多数の顧客は、廃墟から女を助け出したい。男たちは愛の対象の地位に彼女を回復させたい。言い換えれば、男たちは女が妻-母になることを望む。尊敬の対象に戻したいのである。こうして円環が完成する。

興味深いことに、女の救済あるいは女の貶めのどちらの場合も、権力[the power]は男にあることだ。これ自体は、原母子関係のリライトである。男のポジションは受動性から能動性へ移行する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness, 1998、摘要)




◼️真のラカニアンテキストとしてのフロイトの三つの論文

フロイトの三つの「性愛の心理学への寄与 Beiträge zur Psychologie des Liebeslebens」論文、すなわち『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne」(1910)、『性愛生活が誰からも貶められることについて Uber die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens』(1912)、『処女性のタブー Das Tabu der Virginitat』(1918)。


この三つは、私の見解では、真のラカニアンのテキストである。ラカンは自ら、ラカニアンではなくフロイディアンだと言っている。そしてフロイトは自らをラカニアンではないとは決して言っていない・・・。私は心から信じている。この三つのテキストには真にラカニアン的フロイトがいる、と。この諸テキストは、ラカンのテキストの再読・再考を促してくれる。…それは「ひとりのラカン」を超えてゆくためにフロイトを読むことを意味する、「もうひとりののラカン」の助けを以て。〔・・・〕

「性愛の心理学への寄与」論文の重要性は何か? フロイトにとっての問いは、男と女は互いにいかに関係するのかという、皆が実際に熟考している問いである。その意味は、男女の性関係を考える試み、その困難・その袋小路に思いをめぐらす試みである。(ジャック=アラン・ミレール,  A New Kind of Love)





◼️男たちにおける女性恐怖

処女性のタブーは、性生活全体を包含する大きな文脈に属している。女性との初性交だけでなく、性交渉全般がタブーであり、ほとんど女自体がタブー[das Weib sei im ganzen tabu]といってもいい。女性の性生活から続く月経、妊娠、出産、産褥の特別な状況においてタブーとされているだけでなく、これらの状況以外でも、女性との性交は深刻かつ非常に多くの制限を受けており、未開人の性的自由と言われるものを疑うだけの理由がある。


確かに原始人のセクシュアリティは、ある時はあらゆる抑制を超越しているが、通常は高次の文化レベルよりも禁止事項によって制限されているように思われる。男は何か特別なこと、遠征、狩り、戦争に参加するやいなや、女性から遠ざかり、特に女性との性交渉を避けなければならない。そうでなければ、彼の力を麻痺させ、失敗をもたらすだろう。日常生活の習慣の中にも、まぎれもなく男女の区別をつけようとする姿勢がある。女性は女性と、男性は男性と一緒に暮らす。多くの原始部族は、私たちの感覚ではほとんど家族生活をしていないと言われている。その分離は時に、一方の性が他方の性の人名を発音することを許されず、女性たちは特別な語彙を持つ言語を発達させるほどである。しかし、ある部族では、夫婦の逢瀬さえも家の外で密かに行わなければならないのである。

原始時代の男がタブーを設置するときはいつでも、或る危険を恐れている。そして議論の余地なく、この忌避のすべての原則には、一般化された女性の恐怖が表現されている。おそらくこの恐怖は、次の事実を基盤としている。すなわち女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものであり、それゆえ敵対的な対象だと。

Wo der Primitive ein Tabu hingesetzt hat, da fürchtet er eine Gefahr, und es ist nicht abzuweisen, daß sich in all diesen Vermeidungsvorschriften eine prinzipielle Scheu vor dem Weibe äußert. Vielleicht ist diese Scheu darin begründet, daß das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig und darum feindselig erscheint.

男は女によって弱体化されることを恐れる。その女性性に感染し無能になることを恐れる。性交が緊張を放出し、勃起萎縮を引き起こすことが、男の恐怖の原型であろう。性行為を通して女が男を支配することの実現。男を余儀なくそうさせること、これがこの不安の拡張を正当化する。こういったことのすべては古い時代の不安ではまったくない。われわれ自身のなかに残存していない不安ではまったくない。

Der Mann fürchtet, vom Weibe geschwächt, mit dessen Weiblichkeit angesteckt zu werden und sich dann untüchtig zu zeigen. Die erschlaffende, Spannungen lösende Wirkung des Koitus mag für diese Befürchtung vorbildlich sein und die Wahrnehmung des Einflusses, den das Weib durch den Geschlechtsverkehr auf den Mann gewinnt, die Rücksicht, die es sich dadurch erzwingt, die Ausbreitung dieser Angst rechtfertigen. An all dem ist nichts, was veraltet wäre, was nicht unter uns weiterlebte. (フロイト『処女性のタブー』1918年)




◼️欲望と享楽において、女性よりも弱い性である男性

日常経験において、男性器は輝かしいポジション、つまり伝統的図像学における勃起したファルスの表象を見出すことは稀である。消耗が男性のセクシャリティの日常の役柄だ。オーガズム、つまり期待された享楽に至るやいなや、勃起萎縮が起こる[survient la détumescence de l'organe]。他方、女性の主体はどんなインポテンツにも遭遇せず、男性のように性交において去勢をこうむる器官に翻弄されずに、享楽を経験する。フロイトの女が去勢されているなら、ラカンの女は何も欠けていない。《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…あれは何も欠けていないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ]》(20 Mars 1963)。ーーラカンは不安セミネールⅩでこう言った。〔・・・〕

ラカンは明瞭化したのである、ファルスはたんにイマージュ、力のイリュージョン的イマージュ[l'image illusoire de la puissance]に過ぎないと。女性の主体は男が喜ぶようにこの囮の虜[captif de ce leurre]になりうるかもしれない。だが実際は、欲望と享楽に関して、男性の主体のほうが弱い性なのである。《女は享楽の領域において優越している[La femme s'avère comme supérieure dans le domaine de la jouissance ]》(S10, 20 Mars 1963). (ジャン=ルイ・ゴーJean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)



何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータの神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 1998)




◼️われわれはみな原始人(太古人)である

フロイトは、女性には一般的なタブーがあると定式化するようになる...「女性全体がタブーであると言ってもいいくらいだ」と。女性の一般的なタブーがあり、これは「性関係はない」に至る一里塚である。フロイトは原始人に帰結するものとしてそう言った。

Freud en vient à formuler qu'il y a un tabou général de la femme…: « On pourrait presque dire que la femme dans son entier est tabou. » Cet énoncé général d'existence, à savoir qu'il y a un tabou général de la femme, et qui est un jalon sur le chemin du « Il n'y a pas de rapport sexuel », Freud nous en donne le fondement comme gentiment attribué aux primitifs.

だが忘れてはならない。太古という語をフロイトは使っていることを。太古の分析 において、われわれはみな原始人である[N'oublions pas l'usage qu'il fait du terme d'archaïque …dans l'analyse à l'archaïque, ce qui veut dire précisément, …que nous sommes tous des primitifs. ]  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)


◼️太古=エス=異者としての身体=不気味なもの

「太古の遺伝」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


ーー《不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.]》(フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)


女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ]

しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である[Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.]

「愛はノスタルジーだ」と機知は言う[ »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort]

そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい[und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. ]

したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。

[Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. ]

(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)




◼️女性器への固着

すべての幼児期理論の共通の特徴は、民俗学的にも証明されているが(特に神話や妖精物語)、女性の性的器官の否認である。そこには経験された出産外傷の抑圧が明瞭に基礎にある。

Der gemeinsame Zug aller infantilen Geburtstheorien, die auch ethnologisch {Mythen und besonders Märchen) reichlich zu belegen sind ist die Verleugnung des weiblichen Sexualorgans und dies verrät deutlich, daß sie auf der Verdrängung des dort erlebten Geburtstraumas beruhen.


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている。女性の冷感症から男性の心的インポテンツまでである。

Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde, der psychischen Impotenz wie der weiblichen Frigidität in allen ihren Formen, (オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)

性交が中断されたとき引き起こされる性的機能の障害との遭遇は、母の性器の不安(危険なヴァギナデンタータ)に相当する。Störungen der Sexual funktion hinüberleitet, indem der sie auslösende Koitus interruptus der Angst vor dem mütterlichen Genitale entspricht (gefährliche vagina dentata). (オットー・ランク『出産外傷』1924年)


ラカンの「不安セミネール」で展開されたこと、それはまた、フロイトの『制止、症状、不安』においてまとめられた不安理論、『出産外傷』におけるオットー・ランクの貢献としての不安理論を支持している[que c'est développé dans le Séminaire de l'Angoisse,… prend aussi en charge, …la théorie freudienne de l'angoisse qui intègre dans Inhibition, symptôme, angoisse l'apport d'Otto Rank sur le traumatisme de la naissance. ](J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne-  12/05/2004、摘要)



◼️享楽=固着=トラウマ

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme…elle est l'objet d'une fixation.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


◼️享楽の回帰=トラウマの回帰

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance].(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


◼️母への原固着=原トラウマ

出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう「原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。

Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)




……………………


※付記


◼️女性原理の時代

原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


◼️母なる女という原支配者

家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制(家母制)の青白い反影にすぎない[the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system] (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


◼️すべての女には全能の母の影が落ちている

母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕

全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


◼️エディプス的父の蒸発と母なる超自我の支配

父の蒸発 [évaporation du père ](ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と[au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » ](ラカン, S18, 16 Juin 1971)

母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial   ]〔・・・〕

母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


◼️神=超自我=女なるもの

人が一般的に神と呼ぶもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)

女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)