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2023年4月5日水曜日

自分が持っているかどうか自信のないものを、本当に欲しがっているかどうか自信のない人に与えること

 

辛いものがあるんだろうな、繊細な人間であればあるほど。


実際コンサート・ホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。ぬるま湯につかったような態度で音楽に接する人々や、音楽を聞きながら夢想や計算をやめずにいられる人々に比べれば、音楽に恐れをなして逃げ出してしまう人々のほうがよかった。(ミシェル・シュネデール『グールド ピアノソロ』アリア、1988年)

コンサート・ホールの限界ーーほとんど誰も聴いていないし、レコードを聴く者にくらべると演奏会の聴衆は注意力が散漫であり、それに二十万人という数の人間に触れることができるのに、二千人の人間に語りかけてどうなるというのかーーに甘んじようとはしないあのような孤独はたしかに傲慢といえるかもしれない。グールドは同類とのコミュニケーションを拒否したが、それはただコミュニケーションではないもの、「コミュニケーションの時代」という名のもとに売られるあの空虚な文句に対する拒否反応だったのだ。彼の孤独は、個々の人間とその孤独において結合するための手段だった。グールドがわれわれに示したのは、彼を聴こうとするとき、もはやそこに彼はいないという恥じらい、あるいは友愛だった。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド ピアノソロ』第6変奏)


……確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、 感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(掠れ書き25 ピアノを弾くこと  高橋悠治 水牛だより 2013年2月)



前回掲げた能面師のような「職人」ならいざ知らず、演奏家は聴衆に媚を売らざるを得ないところがあるんだろうからな。


…………………


ピアニストであるということは、かくも難しいことなのだ。誰もあなたに期待してない、誰もあなたを必要としていない。ジャック・ラカンならこう言っただろう。ピアノを弾くということは、自分が持っているかどうか自信のないものを、本当に欲しがっているかどうか自信のない人に与えることである。(オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』1990年)



もちろんこれはピアニストに限らない。


愛とはあなたが持っていないものを与えることだ、それを欲していない人に。[L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas à quelqu'un qui n'en veut pas. ](Lacan, S12, 17  Mars 1965)



私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。On aime celui ou celle qui recèle la réponse, ou une réponse, à notre question : « Qui suis-je ? » 〔・・・〕

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。すなわちあなたは彼もしくは彼女がいなくて寂しいということである。Pour aimer, il faut avouer son manque, et reconnaître que l'on a besoin de l'autre, qu'il vous manque. qu'il vous manque.


自らを完全だと思う者、あるいはそう欲する者は、愛することを知らない。時に彼らは痛みをもってこれを確かめる。彼らは巧みに操る、愛の糸を引く。しかし彼らは愛のリスクも愛の喜びも知らない。Ceux qui croient être complets tout seuls, ou veulent l'être, ne savent pas aimer. Et parfois, ils le constatent douloureusement. Ils manipulent, tirent des ficelles, mais ne connaissent de l'amour ni le risque, ni les délices.

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。« Aimer, disait Lacan, c'est donner ce qu'on n'a pas. » Ce qui veut dire : aimer, c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre. Ce n'est pas donner ce que l'on possède, des biens, des cadeaux, c'est donner quelque chose que l'on ne possède pas, qui va au-delà de soi-même. Pour ça, il faut assumer son manque, sa « castration », comme disait Freud.


そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。もし彼が自らの滑稽さになすがままになったら、実際のところ、自らの男性性についてまったく確かでなくなる。Et cela, c'est essentiellement féminin. On n'aime vraiment qu'à partir d'une position féminine. Aimer féminise. C'est pourquoi l'amour est toujours un peu comique chez un homme. Mais s'il se laisse intimider par le ridicule, c'est qu'en réalité, il n'est pas très assuré de sa virilité. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)




享楽は去勢である[la jouissance est la castration. ]( Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration]  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す[$ ≡ (- φ)  ]

j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (- φ)  (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)



唯一の真理はプラトンのエロスだよ、『饗宴』のアリストパネスの話だ。




人はみなちょん切れてるんだ、ほんとうは男も女も。



ちょん切れていないと勘違いしている男はファルスの詐欺師に過ぎない。



女なるものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

空虚としての主体の場自体が、主体を空集合と等置する[$ ≡ Ø]

La place même du sujet comme vide, qui fait équivaloir le sujet à l'ensemble vide :$ ≡ Ø (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)


要するにラカンの斜線を引かれた主体は女だ。



さて、《自らを完全だと思う者、あるいはそう欲する者は、愛することを知らない》ーーとすれば確信的な演奏には愛はないということになるのだろうか?


ステージで倒れた後の晩年のミケランジェリは愛に溢れるようになったね、完璧主義者時代の彼とは異なって。女になったんだよ、あれは。