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2023年5月26日金曜日

恥ずかしさの余り総毛立つ言葉、あるいは言語はプロパガンダ


 昨年の11月に引用した小林秀雄=ヒトラーのプロパガンダ論はあらためて読んでも実に素晴らしいね、事ある毎に振り返ってみたくなるよ。そう、今ならさる国際政治学者の広島サミット論ーー《人々にさまざまな思いを残したG7広島サミットが終わった。実りの多いサミットであった。これほど多くの人々に「感動した」と言わせる国際会議は、珍しい。関係者の努力に敬意を表する。》ーーなどという文で始まるお花畑論を掠め読みして、すぐさま想起したね。

僕ももちろん大衆のひとりで健忘症気味だが、小林秀雄の名随筆は繰り返して思い出すぐらいはしとかないとな、《大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。》


◼️小林秀雄「ヒットラーと悪魔」より

ヒットラーは、首相として政権を握るまで、世界一の暴力団を従えた煽動政治家に過ぎなかった。大臣はおろか、議員にさえなった事はなかった。 一切の公職は、彼に無縁であった。政治家以前の彼も全く無職であった。彼の思想は、彼自身の回想を信ずるなら、ウィーンの浮浪者収容所の三年の生活のうちに成ったものである。


彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。


人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしかあり得ない。そして彼の言によれば「およそ人間が到達したいかなる決勝点も、その人間の獣性プラス独自性の御蔭だ」と。


この彼の一見妙な言い方も、彼の原理に照らせば明瞭であろう。人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。 一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。


間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

大衆は議論を好まぬ。 ドイツのマルクシズムの弱点は、それを見損っている処にある。無邪気な客観主義は、新しい理論を生み出すに過ぎず、人心の扉を開けて、そこに眠っている権力への渇望に火をつける事を知らぬ。 マルクシズムの革命の成功者は、科学的教義によって成功したのではない。大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望に火を附ける事によってである。これらは一階級の弱点ではない。人間の弱点だ。問題は弱点の濃厚になっている場所を捜す事だ。ドイツ共産党は、この利用すべき原動力を忘れている。


だが、マルクシズムにも学ぶべき点がないわけではない。 それは、ある世界観を掲げているという事だ。ビスマルクの社会主義弾圧法以来の政治家どもの失敗は、世界観というものを粗末にしていたからだ。


では、世界観とは何か。獣物の闘争という唯一の人性原理を信じたヒットラーには、勿 論、科学的であろうとなかろうとあらゆる世界観は美辞に過ぎない。だが、美辞の力というものはある。この力は、インテリゲンチャの好物になっている間は、空疎で無力だが、一般大衆のうちに実現すれば、現実的な力となる。従って、ヒットラーにとっては、世界観は大衆支配の有力な一手段であり、もっとはっきり言えば、高級化された一種の暴力なのである。暴力を世界観という形に高級化する事を怠ると、暴力は防禦力ばかりで、攻撃力を失う、と彼は明言している。 もっとはっきり、彼は世界観を美辞と言わずに大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。そして、彼はこう附言している 。た とえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。 嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。


大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。


 これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。


ヒットラーの心理学に、何もあきれる事はないのだ。現代の無意識心理学も似たような事をやっていないと誰に言えるだろう。大事な点は、ヒットラーが、無意識界の合理的解釈などを自慢している思い上った心理学者ではなかったところにある。「マイン・カンプ」に散在するこれらの言葉のうちで、著者によって強行され、大衆のうちに実証されなかった言葉は一つもない。「マイン・カンプ」が出版された時、教養ある人々は、そこに怪しげな逆説を読んだに過ぎなかった。暴力団の団長に、常軌を逸した風来坊の姿を見て、これを侮蔑した。が、相手の、比較を絶した、大きな侮蔑の力を計る事は出来なかった。ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。

〔・・・〕

専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた。彼はプロパガンダを、単に政治の一手段と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている。あの数々の残虐が信じ難い光景なら、これを積極的に是認した人間の心性の構造が、信じ難いのは当り前の事だと考えている。彼は、死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。だが、これは、人間は獣物だという彼の人性原理からの当然な帰結ではあるまいか。 人間は獣物だぐらいの意見なら、誰でも持っているが、彼は実行を離れた単なる意見など抱いていたのではない。


三年間のルンペン収容所の生活で、周囲の獣物達から、不機嫌な変り者として、うとんぜられながら、彼が体得したのは、獣物とは何を措いても先ず自分自身だという事だ。これは根抵的な事実だ。それより先に行きようはない。よし、それならば、一番下劣なものの頭目に成ってみせる。昴奮性と内攻性とは、彼の持って生れた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。 無方針な濫読癖で、空想の種には困らなかった。彼が最も嫌ったものは、勤労と定職とである。当時の一証人の語るところによれば、彼は、やがて又戦争が起るのに、職なぞ馬鹿げていると言っていた。出征して、毒ガスで眼をやられた時、恐ろしく彼の憎悪は完成した。勿論、一生の方針が定ってからは、彼は本当の事は喋らなかった。 私も諸君と同じように、一労働者として生活して来たし、一兵卒として戦って来た、これが彼の演説のお題目であった。

〔・・・〕

六人の仲間で、運動を始めた頃は、彼も世間並みの悪党を脱し切れなかったかも知れない。 宣伝文句など、それ自体何の意味もないのだから、どうでもよろしい。プロパガンダという仮面は、勝手にかぶったりぬいだり出来る道具である。そう考えていたかも知れない。だが、彼が成功するにつれて、仮面は鬼面の如く、彼の肉から離れぬものと化した。そこに、プロパガンダの真の意味が生じたとも言えようか。


ヒットラーが事を成し得た当時のドイツ社会では、暴力行為とプロパガンダが、極く普通のものと見なされていた。今日の日本の社会でもこんな普通なものはない。 批判という言葉は大流行だが、この言葉は、われわれは既に批判の段階を越えて、今や実力行使の段階に達した、と続くのが常である。 批判に段階があるとは、おかしな事である。私の常識では、批判精神の力は、その終るところを知らぬ執拗な忍耐強い力にある。私は屢々考える事がある。現代の批判精神は、人性という不思議な存在について、思いまどう、自己の日常経験に即した、直接な内省力を全く失って了ったのではあるまいか。その為に、批判精神は、その生きた微妙さを失い、想像力も忍耐力も失い、抽象化して了ったのではあるまいか、と。


もしドストエフスキイが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼の根本の考えに揺ぎがあろう筈はあるまい。やはり、レギオンを離れて豚の中に這入った、あの悪魔の物語で小説を始めたであろう。そして、彼はこう言うであろうと想像する。悪魔を、矛盾した経済機構の産物だとか一種の精神障礙だとかと考えて済ませたい人は、済ませているがよかろう。しかし、正銘の悪魔を信じている私を侮る事はよくない事だ。 悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか映らぬのも無理のない事である、と。

(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年)



特に小林秀雄=ヒトラー曰くの《プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった》、すなわち「言語はプロパガンダ」というのは熟読玩味すべきだよ。



少し前引用した「言語はレトリック」、あるいは「言語はフェティッシュ」とともにね。


言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)


しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)



27歳の小林秀雄の次の文は既に事実上、言葉はフェティッシュと言っている。


吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

商品は世を支配するとマルクス主義は語る、だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、 それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)



言語のフェティシズム、それは人間語が商品語(交換語=コミュニケーション語)として生産されるや否や人間語に取り憑きコミュニケーションから切り離されないものである。


商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換がそれを証明している。われわれは互いにただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


言葉はプロパガンダ、言葉はレトリック、言葉はフェティッシュというのは穏やかに言えば次のようなことだよ。


憎んでいると思ったこともない代わりに
言葉を好きだと思ったこともない
恥ずかしさの余り総毛立つ言葉があるし
透き通って言葉であることを忘れさせる言葉がある
そしてまた考え抜かれた言葉がジェノサイドに終ることもある

ーー谷川俊太郎「鷹繋山」


以上、「恥ずかしさの余り総毛立つ言葉」に行き当たってしまっての引用集でした。