このブログを検索

2023年5月29日月曜日

プーチンの「時代錯誤的な」家父長制復権希求演説

 


➡︎動画

このプーチンの演説は直近のものではなく、2021年になされたもののようだが[参照]、事実上、家父長制復権を言っているように聞こえるね、時代錯誤的に?

だがこの演説は、ジャック=アラン・ミレールの2012年と2014年のラカニアン会議プレゼンテーション発言とともに聞くと、いっそうよく耳を傾けることができる、と私は思う。


【失われた大義の復権の必要性】(ミレール、2012年)

父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。〔・・・〕

父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しみ、それぞれの仕方で性的妄想を抱くのである。〔・・・〕

私は言わなければならない。おそらくここにいるマジョリティの見解ではないだろうにも拘らず。私は考えている、カトリック教会のやり方を賞賛すべきだと。現在でさえカトリック教会は現実界の自然な秩序を守るために闘っている。生殖、セクシャリティ、家族等。もちろんそれらは時代錯誤的要素である。しかし彼らは古代の言説の現前、持続、堅固さである。あなたがたは言いうる、失われた大義として讃嘆すべき言説だと。[Je dois dire, même si ça n'est peut-être pas l'avis de tous ici, que je trouve remarquable la façon dont l'église catholique, encore aujourd'hui, lutte pour protéger le réel, son ordre naturel, pour les questions de la reproduction, de la sexualité ou de la famille. Ce sont des éléments anachroniques qui témoignent de la durée et de la solidité de ce discours ancien.Voilà un discours admirable comme cause perdue]…

失われた大義? だがラカンは言った、教会の大義はおそらく凱旋を告げると[Cause perdue ? Lacan disait cependant que la cause de l'église annonçait peut-être un triomphe]. (ラカン「カトリックの言説によって先導される宗教の凱旋 Le triomphe de la religion précédé de Discours aux catholiques」octobre 1974)。


なぜか? 自然から解放された現実界は、あまりにも悪く、ますます耐え難くなっているから。取り戻し得ないとしても失われた秩序へのノスタルジーは、イリュージョンの力をもつ。[Pourquoi ? Parce que le réel, dégagé de la nature, est pire et devient de plus en plus insupportable. Nostalgie pour un ordre perdu impossible à retrouver qui a la vigueur d'une illusion. ](J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)



ーー上でジャック=アラン・ミレールが言っている父の名は、フロイトのエディプス的父のことである、《ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019




【性交の怒涛の時代】(ミレール、2014年)

◼️ヴィクトリアからポルノへ

精神分析は変貌している。 〔・・・〕


たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。


ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?


これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。〔・・・〕


◼️男の性の弱体化

ポルノグラフィに触れると、弱くなる性は男の性だ。男たちのほうがいっそう容易に受け入れるから。我々は分析において、どんなにしばしば聞いただろう、あれらポルノの浮かれ騒ぎをやってみたいという強迫観念の不平不満を。彼らはハードディスクにストックしてさえいる。


他方、妻や恋人の側では、女たちは、パートナーの実践を自ら知っているにもかかわらず、彼らに比べてやってみることは相対的に少ない。そのときどうなるか? 場合によりけりだ。女は裏切りと思うかもしれない。取るに足らない娯楽と思うかもしれない。


ポルノグラフィの臨床は、21世紀に属する。私はいまそれに言い及んでいる。しかし、それは詳細に観察されるに値する。というのは、それはしつこく己れを主張し、この15年のあいだ、分析治療において際立って現前するようになったから。


◼️バロック時代と現代社会

とはいえ我々は、このまさに現代的な慣習をめぐって思いを馳せざるをえない。ラカンによって指摘されたこと、すなわち芸術におけるキリスト教信仰の影響の高揚として、バロックの最盛期に実現された影響を。イタリアとその教会の周遊旅行から戻ってきてすぐ、ラカンはぴったりと「オーギー orgie (狂宴)」に言及した。ラカンは、セミネール「アンコール」にて、注意を促した。あれらすべての身体の露出は、享楽を呼び起こすことに相当する、と。


これが、我々がポルノグラフィティとともにある場だ。しかしながら、恍惚感をもたらす身体の宗教的露出は、性交自体に対しては、常に「オフ・スクリーン」のままだった。ラカンが観察したように、「人間の現実性」のなかの限界の彼方であるかのように。この「人間の現実性」の奇妙な再出現。Réalité humaine とは、ハイデガーの最初の翻訳者が Daseinと表現された語を仏語に翻訳した表現である。しかし、それは遠い昔のことだ。というのは、今ではどんな「存在」も、この Dasein への道のりから絶縁してしまっているのだから。


科学技術の時代には、性交はもはや個人の領野には限られていない。それは、我々おのおのの幻想を増長しつつ、今では表象の上演の領域に溶け込んでいる。それは大衆的な規模へと移り進んだ。


ポルノグラフィとバロックとのあいだで、強調されなけれなならない二番目の相違がある。ラカンが定義したように、バロックは、身体の観察手段、身体の凝視 “régulation de l'âme par la scopie corporell ”を通して、魂の統御を図った。ポルノグラフィにはそんなものは微塵もない。何の統御もなく、むしろ絶え間ない侵犯がある。


ポルノグラフィにおける身体の凝視は、享楽に向かった「ひと突きnudge」として機能する。「剰余享楽」の型に従って満足させられるように図られた享楽への促し。それは、沈黙し孤立した達成のなかにある、危ういホメオスタシス(恒常性)的統御を逸脱する様式である。〔・・・〕


◼️性交の怒濤による意味のゼロ度

電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく歴然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀に谺していることだ。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在が、おそらくこの熱中に帰されうるから。我々は既に、この熱中の帰結を、より若い世代の道徳観のなかの足跡を辿りつつある。あの世代の性的振る舞いスタイルにおける習俗のなかに、である。すなわち、幻滅・残忍・陳腐…。


ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている[La furie copulatoire atteint dans la pornographie un zéro de sens]……(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)


ジャック=アラン・ミレール曰くの《意味のゼロ度》とは現実界の享楽をさしている。


意味の排除の不透明な享楽[Jouissance opaque d'exclure le sens ](Lacan,  “Joyce le Symptôme”, AE 569、1975年)

現実界は意味の追放である[Le Réel, c'est l'expulsé du sens,](Lacan, S22, 11 Mars 1975)

現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



先のミレール文にある、ラカンが言った「オーギー orgie (狂宴)」については、「母なるオルギアと父なるレリギオ(中井久夫)」を参照