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2022年9月3日土曜日

母なるオルギアと父なるレリギオ(中井久夫)

 

中井久夫には「母なるオルギアと父なるレリギオ」と要約できる文がある。

この文は、「父」が家父長制やエディプス的父ーーとくに抑圧の原理あるいは支配の原理ーーのみを表象するというフェミニズム的通念に囚われている方々には特にじっくり読んでほしい文である。


◼️母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)

父子関係は、子の母親すなわち配偶者を大切にすることから始まる〔・・・〕。たしかに、配偶者との親密関係を保てない父が自然でよい父子関係を結べることはないだろう。また、父もいくらかは、"母"である。現実の母の行きすぎや不足や偏りを抑え、補い、ただすという第二の母の役割を果たすことは、核家族の現代には特に必要なことであり、自然にそうしていることもしばしばある。ただ、父子関係には、ある距離があり、それが「つつしみ」を伝達するのに重要なのではないだろうか。このようなものとして、父が立ち現れることはユニークであり、そこに意味があるのではないだろうか。

「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。


宗教だけではない。ヒトの社会に「父」が参加したのは、始まりは子育ての助手としてであったというが、この本来の父の役割は、家族から社会、部族、国家へと転用された。この拡大は農耕社会に始まり現状に至っていると私は思う。父は狩人から始めて戦士となり航海者となり官僚となりサラリーマンとなった。そして国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う。父を家の外に誘い出すことによって、家庭の父の役割は薄くなった。狩猟には父は息子とともに参加したのであろうが、おそらく農耕社会以後の父の実態は核家族と大家族と社会の三つの世界に引き裂かれた存在である。「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである。それがほどなく「宗教」の意味になったのは周知のとおりである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」初出2003年『時のしずく』所収)


ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)



《国家、部族、地域社会はそれ自体が父親的である。しかし元来の父の役割はそうではなかったと私は思う》。そう、本来の父とは、天才宗教史学者カール・ケレーニイのいうレリギオだった。


もっとも中井久夫は《「レリギオ」はギリシャ哲学をラテン世界に紹介したキケロによって「良心」の意味に使われた。つまり「超自我」にこの名が与えられたのである》としている。この文はいくらかの修正が必要である。


フロイトの超自我は、ラカンにとって現実界の対象aである。

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


この現実界の穴としての対象aは、固着のトラウマであり、母である。

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


超自我が固着であるのは、最晩年のフロイト自身の記述に現れている。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert ]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


ーー欲動の固着は破壊欲動に繋がる。これがラカンの享楽である。


さらに母が超自我であることもフロイトにある。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー超自我は自我とエスを分離する審級で、幼児の依存にかかわると記されている。


最初期の幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]の対象は、母への依存性[Mutterabhängigkeit](フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。


この母が原超自我であることは、前期ラカンに既にある。

母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial   ]〔・・・〕

母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


さらにラカンが《問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.]》  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)と言うときのトラウマとはフロイトの定義において身体の出来事であり、身体の出来事への固着と反復強迫である。

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


最初期に身体の出来事は、ほとんどの場合、幼児の世話役としての母に相違ない。フロイトには母への固着[Fixierung an die Mutter]という表現が頻出するが、これは事実上、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]かつ超自我への固着[Fixierung an das Über-Ich]なのである。


後年のラカンにおいては、母なる超自我が超自我自体になる。


エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と[au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » ](ラカン, S18, 16 Juin 1971)


ラカンはエディプス的父の失墜に伴って《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をした。これが現実界の享楽の審級にある超自我の命令の一形態である。


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. 〔・・・〕

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



ここでラカンがいう享楽なる不快は、フロイトにおける不安というトラウマである。

不快(不安)[ Unlust-(Angst).](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


つまり原支配者としての母なる女はトラウマを与えるのである。


以上に示してきた意味で本来の超自我とは中井久夫の記述とは異なり、母なるオルギアの審級にある。レイシズムとはレリギオなき距離のない狂宴の現れのひとつである。


他方、父とは自我理想である。


フロイトの自我理想は象徴界の審級にある。

要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](Lacan, S24, 08 Février 1977)


フロイトにとって自我理想[Ichideal]は《父のかわり[Vaterersatz]》(『集団心理学と自我の分析』)であり、これがラカンの父の名に相当する。


父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)

ーー象徴界とは言語であり、つまり自我理想あるいは父の名は言語の審級にあるということである。

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)



前期ラカンはこの父の名を父なる超自我とも表現した。



エディプスなき神経症概念、それは母なる超自我と呼ばれる。Cette notion de la névrose sans Œdipe, … ce qu'on a appellé le surmoi maternel : 

…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le surmoi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?   

 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


この父なる超自我は原点にある母なる超自我の代理である。これをラカンは父なるシニフィアンと母なるシニフィアンと言った。


エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)、母なるシニフィアン である[La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant,… c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  ](Lacan, S5, 15 Janvier 1958)



では、父の名としての「父なる超自我」は、中井久夫のいう「父なるレリギオ」に相当するのか。いやそうではない。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


ここでラカンが言っているのは支配あるいは抑圧の論理に陥りがちな父の名を迂回しつつも父の機能が必要だということである。


これが中井久夫の示している、距離のない狂宴の審級にある「母なるオルギア」に対する慎みの審級にある「父なるレリギオ」に相当する。




フェミニストたちをはじめとして世界のほとんどの人々はいまだこのことに気づいていない。「家父長制打倒!」を叫んでエディプス的父が消滅してしまった現在ーー《父の蒸発 [évaporation du père]》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)ーー、この現在は距離のない狂宴の世界でしかない。世界はなんらかの形で父なるレリギオが必要なのである。それは何も宗教でなくてもよい、必要なのは《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)である。