ああ、若い時はそれでいいんだよ、まず文字通り読む訓練しなくちゃな。でもある程度齢を重ねたら、それじゃまったくすまないってことは知っておくべきだよ
古典を読むときには、二段構えのアプローチが必要であることを確認しておきたいと思います。まず第一に、その文章のなかに何が書かれていないかを見つけだすこと、そして第二に、そこに何が書かれているかを見いだすことです。(岩井克人『資本主義を語る』1994年) |
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書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]〔・・・〕 哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.](ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年) |
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技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。〔・・・〕 |
といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 ) |
昔は三十過ぎのヤツならバカにしたが、知的退行の二十一世紀だから四十ぐらいまでなら妥協するよ。キミはまだ三十代のようだから許しちゃうよ。わかるかい? これが親切ってもんだ。