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2022年9月2日金曜日

「われわれの予想を超えて政府との距離が近い」学者たち

 

中井久夫の主著は『分裂病と人類』ということになっているが、『治療文化論』もいいねえ、短いエッセイを除いて最もホンネが出ている書ではないか。


もし「私」小説にならって「私精神医学」があるとしたら、この本の半ば、あるいはその一側面をそれと名ざされても、私は異議を唱えない。(中井久夫『治療文化論』「あとがき」1990年)



とはいえ、ここではそのホントにいいところを外して冒頭近くにある二文だけを引用する。

欧米資本主義ほど「悪性の」強制加入力を持つ人間的事象は他にほとんど類をみないことである(一九八九ー九〇年にはついにこの力の場の中に"社会主義"諸国がよろめきつつ引き入れらた)。(中井久夫『治療文化論』p7)

米国をはじめ、欧米諸大学の学者は、われわれの予想をこえて政府との距離が近い。(中井久夫『治療文化論』p8、1990年)


日本でも1990年以降に学者としての知を詰め込んだ連中は、「オヒキトリ」してもらうべきじゃないかね。あれら欧米ネオコン宗教信者、あれら資本主義批判ゼロの連中は。55歳以下はほとんど全滅だな。これから大学入って学ぶ連中にわずかばかりの希望を託す他ないね。とはいえ全滅の教師に教えられるんだから期待薄だなあ・・・


何はともあれ、20歳から55歳前後ぐらいまでの既成秩序の奴隷として専心しているインテリ連中は、さてーーポルポトの対象になってもらうべきじゃないかーーなどとは言わないでおくが、蛸壺オタクに専念してもらって、少なくとも「政治的には」口を閉ざしてほしいよ、とくにあれら国際政治学者たちは。


学歴社会を否定すれば、どこに行き着くのか。一切の知識人的な者を消滅させ、その基盤をも覆し、いわば文化を「更地」しようとした試みをわれわれは一つ知っている。それを敢えてしたポルポトは長期のフランス留学において興議申立て世代に接触した、フーコーの忠実な精神的弟子である。フーコーがそれを予想しなかったとしても、弟子は師よりも論理を徹底させがちである。バリの学生は「石畳の下は砂だ」と叫んだ。「砂」とは「更地」ということである。ポルポトはほんとうにそうしてしまった。知識人の片鱗をみせる者として歯科医までを殺し、貨幣と都市とを廃絶し、国民皆耕が実現するかにみえた。ただ、銃剣による強制なしではそれは実現しなかった。しかし今何と早くカンボジャに都市と貨幣と学歴社会が復興したこと、そして銃剣を持つ者だけが精強な集団として山地に割拠するという結末ーー。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収)




どうもあの世代のインテリ連中にはネオコン宗教信者から逃れられそうな気配が微塵も感じられないからな。


ウクライナ紛争後、元外務省中国課の浅井基文氏の文をしばしば引用してきた。氏自身(私の視点からは)資本主義批判が弱い人だが、現在の最低限のスタートは浅井氏の言ってることからだよ。


私たちに緊急に求められているのは、「アメリカ=善」「中ロ=悪」という二分法的国際観を卒業することです。(浅井基文「伝統的分析方法が通用しない今日のアメリカ」7/25/2022)

ロシアは今や、「ロシア嫌い」(Russophobia)で凝り固まった米西側との関係改善・再構築の可能性はもはやないと思い極め、脱米西側の外交戦略に舵を切った観があります。ウクライナに対する特別軍事行動を開始するまでは、バイデン・アメリカはともかく、メルケル・ドイツ、マクロン・フランス等欧州諸国との関係に一縷の希望をつないでいたと思われます。しかし、メルケルが去ったドイツを含め、欧州諸国の大半は今やウクライナ支援・対ロ対決でアメリカと足並みをそろえるに至りました。(浅井基文「ロシアの対外戦略の根本的転換」2022/09/01)



あの55歳以下のインテリ諸君は不幸な世代として憐れむべきなのかもしれないが、精神のカタワの世代には相違ないよ。


びっこの人が、我々をいらいらさせないのに、びっこの精神を持った人が、我々をいらいらさせるのは、どういうわけだろう。それは、びっこの人は、我々がまっすぐ歩いていることを認めるが、びっこの精神の持主は、びっこをひいているのは、我々の方だと言うからだ。そうでなければ、怒りではなく、憐れみを抱くだろう。

D'où vient qu'un boiteux ne nous irrite pas et un esprit boiteux nous irrite ? À cause qu'un boiteux reconnaît que nous allons droit et qu'un esprit boiteux dit que c'est nous qui boitons. Sans cela nous en aurions pitié, et non colère.(パスカル『パンセ』§80)


自らが精神のビッコであることを認めるのはひどく困難なんだろうがね、とすると、どうしてもポルポトマインドがふつふつと湧き起こるのをとめようがなくなるんだよ、ヨクナイナア・・・


伝統的にロシア(ソ連)に対して悪いイメージが支配する日本の政治・社会がロシアのウクライナに対する武力侵攻に対してロシア非難・批判一色に染まったのは、予想範囲内のことでした。しかし、一定の肯定的評価を得ている学者、研究者、ジャーナリストまでが一方的な非難・批判の側に組みする姿を見て、私は日本の政治・社会の根深い病理を改めて思い知らされました。(浅井基文「東アジアの平和に対するロシア・ウクライナ紛争の啓示」3/21/2022)

ロシア・ウクライナ戦争に関する「事実関係」が完全に西側メディアの報道によって歪められてしまっている日本国内では、ロシアがウクライナに対する軍事侵攻を余儀なくされた根本原因がアメリカ主導のNATO「東方拡大」、特にロシアにとって最後の緩衝地帯であるウクライナをも「東方拡大」の対象にすることを排除しないバイデン政権の対ロ政策に対する危機感にあることを正確に認識する向きはほとんどありません。(浅井基文「バイデン政権の対ロ包囲網「戦略」の本質」3/28/2022)



《日本の政治・社会の根深い病理》を一掃するためには、フーコーの弟子ポルポトマインドの実践以外にどんな方法があるんだろ? 難問だなあ・・・


どうだい、そこのフーコー好きの若いの? きみのような「美学的」タイプを「更地」にするって案は?



私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ま、何はともあれ気づけよ、きみの「現代思想」は悪性の資本主義の掌の上で踊る支配的イデオロギーに過ぎず、実際のところ「反フーコー精神」であることを。常に「時代に抗する」ことこそフーコー精神なんだから。あるいは真の「現代思想」精神と一般化してもよい。


偉大な思想家が重要なのは、彼らが何を言ったかというよりもむしろ、彼らが生きているなら、彼らが現在の状況をどう見るかだ。それに思いを馳せることだ。フーコーやらドゥルーズやらが、このいま世界で起こっていることを「受け入れる」と思うかい、「沈黙」していると思うかい、この堪え難い世界に?