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2022年8月26日金曜日

「別の仕方で」観察することーー恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者として

 何年か前、調べてみようと思ったことがあるのだが、そのときは曖昧なままで、もう一度探ってみたら、ドゥルーズはフーコーの《別の仕方で思考する[penser autrement]》をニーチェの反時代的考察[Considérations inactuelles]と等置している。それはそれでいいのだが、反時代的[Unzeitgemässe]とは非アクチュアル[inactuelles]なんだな。

ニーチェの『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』は


仏旧訳では、Considérations intempestives

仏新訳では、Considérations inactuelles


反時代的[intempestives]=非アクチュアル[inactuelles]だ。



しかし、今日において哲学とは何であろうか、一一私が言っているのは哲学的活動のことだ一一、もしそれが、思考の思考自身に対する批判作業でないとしたら? そしてもしそれが、すでに知られていることを正当化するそのかわりに、別の仕方で思考することがどのようにしてまたどこまで可能であるかを知ろうとすることでないとしたら?

Mais qu'est-ce donc que la philosophie aujourd'hui – je veux dire l'activité philosophique – si elle n'est pas le travail critique de la pensée sur elle-même ? Et si elle ne consiste pas, au lieu de légitimer ce qu'on sait déjà, à entreprendre de savoir comment et jusqu'où il serait possible de penser autrement

(フーコー『性の歴史』第二巻 『快楽の活用』「序文」M.Foucaul,L'Usage des plaisirs, 1984)


現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来るべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。

Penser le passé contre le présent, résister au présent, non pas pour un retour, mais « en faveur, je l'espère, d'un temps à venir »(Nietzsche), c'est-à-dire en rendant le passé actif et présent au dehors, pour qu'arrive enfin quelque chose de nouveau, pour que penser, toujours, arrive à la pensée. La pensée pense sa propre histoire (passé), mais pour se libérer de ce qu’elle pense (présent) et pouvoir enfin « penser autrement » (futur) (Deleuze, 1986, p. 127).

(ドゥルーズ『フーコー』Deleuze, Foucault, 1986)

フーコーが偉大な哲学者であるなら、彼は歴史を何か別のもののために使ったからだ。ニーチェが言ったように、時代に抗して、したがって時代の上に、願わくば来たるべき時代のために。なぜなら、フーコーにおいてアクチュアルあるいは新しいものとして現れる何ものかは、ニーチェの反時代的、非アクチュアルだから。

Si Foucault est un grand philosophe, c’est parce qu’il s’est servi de l’histoire au profit d’autre chose: comme disait Nietzsche, agir contre le temps, et ainsi sur le temps, en faveur je l’espère d’un temps à venir. Car ce qui apparaît comme l’actuel ou le nouveau chez Foucault, c’est ce que Nietzsche appelait l’intempestif, l’inactuel.». 

(ドゥルーズ「装置とは何か」GILLES DELEUZE,《Qu'est-ce qu'un dispositif?》in 《Michel Foucault Philosophe》1989年)


哲学は常に反時代的である。いつの時代においても反時代的である。la philosophie, toujours intempestive, intempestive à chaque époque. (Gilles Deleuze, Nietzsche et la philosophie, 1962)

能動的に思考すること、それは、「反時代的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」(ニーチェ『反時代的思考』)

Penser activement, c'est “agir d'une façon inactuelle (unzeitgemäss), donc contre le temps, et par là même sur le temps, en faveur (je l'espère) d'un temps à venir” (Nietzsche, Considérations inactuelles) 

(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』第三章 Nietzsche et la philosophie, 1962)



しばしば引用してきたニーチェ自身の文も掲げておこう。


反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕


世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』1876年)



反時代的[Unzeitgemässe]=非アクチュアル[inactuelles]だとしたら、これは潜在的[virtuel]ってことだろうよ。



《アクチュアルなきリアル、抽象なきイデア Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(「見出された時」)――このイデア的リアル 、この潜在的なもの、これが本質である。本質は、無意志的回想の中に実現化または具現化される。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的回想は、本質の持つふたつの力を保持している。それは、「過去の時間の中での差異」と「アクチュアル性の中での反復」である。

« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire. Ici comme dans l'art, l'enveloppement, l'enroulement, reste l'état supérieur de l'essence. Et le souvenir involontaire en retient les deux pouvoirs : la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第1部第5章第2版1970年)


潜在的なものは、フロイトの「固着」でありうることを「ドゥルーズの「差異と反復」とフロイトの「固着と反復」」で示したが、ここではその話はしないでおく。



ここではもっと簡単に、別の仕方[autrement]反時代的[Unzeitgemässe]=潜在的virtuel]としたら、これはプルースト的に観察することだ、と言っておこう。



つまり恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者[le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. ]として考えることさ。


哲学者には、《友人》が存在する[Dans philosophe, il y a « ami »]。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。

友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志[ bonne volonté]のひとたちとして、互いに関係している。彼らは、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。

哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。La critique de Proust touche à l'essentiel : les vérités restent arbitraires et abstraites, tant qu'elles se fondent sur la bonne volonté de penser.


慣習的なものだけが明示的である[Seul le conventionnel est explicite].。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに強制して考えさせる[forcent à penser]もろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している[ignore les zones obscures]。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。

哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真理は望まれたものではなく、無意志的[involontaire]である。

『見出された時』の大きなテーマは、真理の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである[Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire]。


思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである[La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser»]

哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète. ]〔・・・〕

『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser. 〔・・・〕


われわれは、無理に強制されて、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。Nous ne cherchons la vérité que dans le temps, contraints et forcés. Le chercheur de vérité, c'est le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. 


それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。C'est l'homme sensible, en tant qu'il rencontre la violence d'une impression. 


それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。C'est le lecteur, c'est l'auditeur, en tant que l'œuvre d'art émet des signes qui le forcera peut.être à créer, comme l'appel du génie à d'autres génies.

恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. 


哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art.


思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。Toujours la création, comme la genèse de l'acte de penser, part des signes. L'œuvre d'art naît des signes autant qu'elle les fait naître ; le créateur est comme le jaloux, divin interprète qui surveille les signes auxquels la vérité se trahit. 

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



別の仕方で考えるとは、嫉妬する詩人として考えることに他ナリマセン。よろしいでしょうか。哲学なんてお釈迦にしないイケマセン。



密かに私はーー大声で言うわけにはゆかないでしょうがーー形而上学というものはいつか「有害なもの」、思考の誤用、宗教的世界観の時代の「遺物」と判決を下されるであろうと信じています。

Im geheimen – laut darf man es ja nicht sagen – glaube ich daran, daß die Metaphysik einmal als ›a nuisance‹, als Mißbrauch des Denkens, als ›survival‹ aus der Periode der religiösen Weltanschauung verurteilt werden wird.

(フロイト書簡「ヴェルナー・アヒェリス宛」1927年1月30日付



反哲学的になることが、別の仕方で考えることだ。どうして哲学教師をはじめとして学者という種族が木瓜の花揃いなのか、その理由がオワカリニナラレタデセウカ?


思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである[La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser»]

哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète. ] (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



ニーチェが偉大なのは、反哲学者であるからである。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)

われわれの最高の洞察は、その洞察を受けとる資質もなく、資格もない者たちの耳に間違って入ったときには、まるでばかげたことのように、ことによると犯罪のように聞こえなければならないし――そうあるべきである!

Unsre hoechsten Einsichten muessen - und sollen! - wie Thorheiten, unter Umstaenden wie Verbrechen klingen, wenn sie unerlaubter Weise Denen zu Ohren kommen, welche nicht dafuer geartet und vorbestimmt sind. (ニーチェ『善悪の彼岸』第30番、1886年)


最後に蚊居肢子の愛するプルースト的ニーチェを引用しておこう。



迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…

Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...(ニーチェ、1887年秋遺稿)


恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…

Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)


バウボ[Baubo]とはもちろんプチットマドレーヌの別名である。