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2023年5月7日日曜日

自己愛と自体性愛の区別

 例えば何度かこう掲げている。


そしてときには次のように掲げている。


確かにキミの言う通り、現実界を「愛の欲動」としたり、「自体性愛」としたりしている。でもこれは同じことだよ。自体性愛というのはやや難しいので、愛の欲動のほうをしばしば掲げるだけで。ーー《自体性愛的欲動は原初的である[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich]》(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

何よりも重要なのは自己愛と自体性愛の区別をしっかりつけることだね。



この区別自体、フロイトの記述に揺れ動きがあり難解ではあるのだけれど[参照]。

自体性愛というのは文字通りには自己身体愛だが、究極的には去勢された=喪われた自己身体愛。それについてのやや詳しくは、「フロイトのリーベ」を参照。

ここではラカンの二文だけ掲げておこう。

自体性愛の対象は実際は、空洞、空虚の現前以外の何ものでもない。〔・・・〕そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象aの形態をとる。この永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。autoérotisme […] Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide……et dont nous ne connaissons l'instance que sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (Lacan, S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



見ての通り、自体性愛の対象も享楽の対象もどちらも喪われた対象。これは喪われた自己身体を意味する(この喪われた自己身体とは、事実上、乳幼児期、自らの身体と見做していた母の身体)。この文脈のなかでジャック=アラン・ミレールの次の発言がある、ーー《享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[la jouissance,… qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)