このブログを検索

2023年5月7日日曜日

「共同体的な意志」の変容可能性の抑圧

 


私はこのところ、植田日銀総裁は甘いとかコモノっぽい人とか言ったり[参照]、昨日は小幡績を引用して失望を表明した。


日本銀行の植田和男新総裁がすばらしい人物であることは私も知っている。だが、植田新総裁という人物および、彼の初の金融政策決定会合後の記者会見を、世間が現状であまりに礼賛しているのがヤバい。

彼がどんなにすばらしい人格者だとしても、どんなに優秀でも、それと無関係に、日本経済も日本金融市場も国債市場もすでに事実として追い込まれており、身動きできない。「ソフトランディング」はできない。その事実からほとんど目をそらしているに等しい日本社会、日本の論壇がヤバい。(「3つの「世界同時多発『ヤバい』」が起きている  実はアメリカよりも日本のほうがもっと深刻だ」小幡 績 : 慶應義塾大学大学院教授  2023/05/06)



これは結局こういうことなんだよ、



蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)


植田和男氏は、日銀という職能集団において、実にすぐれた専門家に相違ない。だが専門家ゆえにまさに日銀という「共同体的な意志」の変容の可能性を抑圧しているということだ。なぜなら植田総裁は「これまでの金融政策は妥当」、つまり「いわゆるイールドカーブコントロール(YCC)も副作用がある政策であることは事実だが、現在の状況からいってYCCは適切だ」と言ってしまったのだから。


現在から振り返れば、財政的な諸悪の根源は異次元緩和ーー事実上の財政ファイナンスーーにあるに違いないのに。


山本謙三「日銀の国債大量購入はなぜ財政規律上問題なのか」2023. 3



「共同体的な意志」とは柄谷の言い方なら他者との対話がない、日銀という「規則が共有される共同体の内部」での自己対話しかないということに他ならない。


『探究Ⅰ』において、私は、コミュニケーションや交換を、共同体の外部、すなわち共同体と共同体の「間」に見ようとした。つまり、なんら規則を共有しない他者との非対称的な関係において見ようとした。「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションには たえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称関係における交通からなる世界を「社会」とよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。


ここで、誤解をさけるために補足しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それば共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外とか間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『『探究Ⅱ』1989年)


あの実にすぐれてプロフェッショナルな植田和男の言葉をマガオで受け取って束の間の安堵に耽ったらいっそう泥沼に嵌まり込むだけだよ。「これまでの金融政策は妥当」、「現在の状況からいってYCCは適切だ」なんてのは、もはや打つ手なしの事実上「嘘」なんだから。


最低限、それぐらいは目を逸らさずに現状をしっかり読まないとな。


若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)



いま最も重要なのは「必ず訪れる」カタストロフィに備えることだよ。健康な若いもんだったら、生活困窮者援助ーー社会保障や生活保護給付等が止まるだろうからーーのために買い出し等に奔走しなくちゃな、もはやすぐさま「髪の毛を茶髪に染める」時期だよ。