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2023年6月15日木曜日

言語はイデオロギー

 

イデオロギー(Ideologie)は、観念(idea)と思想(logos)を組み合わせた言葉であり、観念思想だ(一般には観念様式、思想様式とされるようだが)。観念とは要するに言語以外の何ものでもない。つまり言語はイデオロギーだ。


例えば次のマルクスとニーチェを「ともに」読んでみよう。


あらゆる時代で支配階級のイデオロギーは、支配的イデオロギーである。社会を支配する、経済力をもつ階級は、同時に支配的な、知的な力ももっている。一般的には、経済的な生産手段を欠く人々のイデオロギーは生産手段をもつ階級のイデオロギーに従属する。

Die Gedanken der herrschenden Klasse sind in jeder Epoche die herrschenden Gedanken, d.h. die Klasse, welche die herrschende materielle Macht der Gesellschaft ist, ist zugleich ihre herrschende geistige Macht. Die Klasse, die die Mittel zur materiellen Produktion zu ihrer Verfügung hat, disponiert damit zugleich über die Mittel zur geistigen Produktion, so daß ihr damit zugleich im Durchschnitt die Gedanken derer, denen die Mittel zur geistigen Produktion abgehen, unterworfen sind. 

(マルクス『ドイツ・イデオロギー』Die deutsche Ideologie、1846年)


名付けるという支配者の権利は、言語そのものの起源を支配権力の発現と見なすことを許さしめるほどに大きくなる。彼らは「これはこれ、そしてこれだ」と言う。彼らはあらゆる事物や出来事をそれぞれ鶴の一声で封印し、そのことでそれらをいわば占有してしまう。

Das Herrenrecht, Namen zu geben, geht so weit, dass man sich erlauben sollte, den Ursprung der Sprache selbst als Machtäusserung der Herrschenden zu fassen: sie sagen ‘das ist das und das', sie siegeln jegliches Ding und Geschehen mit einem Laute ab und nehmen es dadurch gleichsam in Besitz 

(ニーチェ『道徳の系譜』第1論文2節、1887年)


このマルクスとニーチェの二つをくっつければ、「支配的イデオロギーは言語」となる。


さらにニーチェはこうも言っている、

私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) )


私たちの意識は、何によって調整され、単純化され、図式化され、解釈されているのか。なによりもまず、各言語の文法機能だ。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年)


つまり、支配的イデオロギーが言語だけではなく、各言語自体がイデオロギーである。

次のラカンの発言自体、「言語はイデオロギー」と翻訳できる。


フロイトの視点に立てば、人間は言語に囚われ、折檻を受ける主体である [Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage](Lacan, S3, 16 mai 1956)



要するに、人はみなイデオロギストである。



しばしば引用しているニーチェの「言語はレトリック」自体、「言語はイデオロギー」と翻訳できる。


言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)

なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなる。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生する [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。


一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)



ここから、小林秀雄=ヒトラーの「言語はプロパガンダ」には半歩もない。


専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた。彼はプロパガンダを、単に政治の一手段と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている。あの数々の残虐が信じ難い光景なら、これを積極的に是認した人間の心性の構造が、信じ難いのは当り前の事だと考えている。彼は、死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。

(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年)