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2023年6月21日水曜日

知識人は役に立たない、人はみな愚か(東浩紀)

 

最近はいわゆる人文学系研究者、つまり批評家やら思想家、哲学者あるいは知識人などと呼ばれる種族の発言をまったく見ていないのだが、要するに連中に大いなる失望をしてだーー例えばこの2年、東浩紀やら國分功一郎やら千葉雅也、私の関心の分野である精神分析とマルクスなら、若手の松本卓也や斎藤幸平などにまったき不信感を抱いてしまって、ーーだが昨日、久しぶりにさる人物のリツートにより東浩紀のツイートに出会った。




これ自体はいかにも東浩紀らしくよく噛み砕いて一般向けに説いた「すぐれた」見解だね、知識人は役に立たない、人はみな愚か等々。


とはいえ何よりもまず安全保障感の喪失を煽るプロパガンダじゃないかね、人間が批評精神を失うのは。今回のように世論が雪崩れを打って、ワクチンなる生物兵器や防衛予算倍額等の右傾化に簡単に向かってしまうのは。

実際、人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感 security feeling」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。


「安全保障感」希求は平和維持の方を選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」 「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そして、この生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの 「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。

しばしば「やられる前にやれ」という単純な論理が訴える力を持ち、先制攻撃を促す。虫刺されの箇所が大きく感じられて全身の注意を集めるように、局所的な不本意状態が国家のありうべからざる重大事態であるかのように思えてくる。指導層もジャーナリズムも、その感覚を煽る。  


日中戦争の遠因は、中国人の「日貨排斥運動」を条約違反として執拗に責めたことに始まる。当時の日本軍官民の態度は過剰反応としか言いようがない。実際、同時に英貨排斥運動も起こっているが、英国が穏やかにしているうちに、日本だけが標的になった。 (中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収)


この中井久夫の叙述は、ナチ最高幹部でヒトラーの後継者とされたヘルマン・ゲーリングの告白の精緻化として捉えうる。


もちろん、普通の人間は戦争を望まない。〔・・・〕しかし、政治を決定するのは国の指導者だ。国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。 国が民主主義であれ、ファシスト独裁であれ、議会制あるいは共産主義独裁であれ。〔・・・〕とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。

Natürlich, das einfache Volk will keinen Krieg […] Aber schließlich sind es die Führer eines Landes, die die Politik bestimmen, und es ist immer leicht, das Volk zum Mitmachen zu bringen, ob es sich nun um eine Demokratie, eine faschistische Diktatur, um ein Parlament oder eine kommunistische Diktatur handelt. […] Das ist ganz einfach. Man braucht nichts zu tun, als dem Volk zu sagen, es würde angegriffen, und den Pazifisten ihren Mangel an Patriotismus vorzuwerfen und zu behaupten, sie brächten das Land in Gefahr. Diese Methode funktioniert in jedem Land. (ヘルマン・ゲーリングHermann Göring ーー独房での法廷心理学者との対話にて、1946年4月18日)



ま、世界中の国民がこうだよ。だが別の問いはないではない。なぜ日本人はプロパガンダに洗脳されたままで、植え付けられた自らの信念の誤謬に気づくことに最も遅い国民のように見えるか、ということだ。

信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)



そう、なぜ国民集団としての日本人は、例えば「国際政治学者」なる米ネオコン狂信家たちの「絵のごとく美しい」属米身振りをいつまでも喜んでいるのか、ということだ。

その理由のおおよそのところは、「ゲレゲレの日本文化論」に記した内容に起源があるんじゃないかね。