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2023年7月21日金曜日

加齢にともなう「思索の底の浅さ」とその回避方法(中井久夫)

 

中井久夫は、五十歳を二、三年過ぎて「チャンク」の数が減って、思索の底が浅くなった」と感じると言っている。こういったことは誰にでもあるんじゃないか。


思索における短期記憶ーーミラーの法則


短期記憶は思索においてもっとも重要となる。発生する複数の観念を動的に意識に保持する(私は「上場する」といっている。「立ち上げる」といってもよかろう)必要があるからである。たとえば、論文の執筆に際しては、書く内容に関連する重要な観念の塊、「キーワード」いやむしろ「チャンク」(かたまり)というほうがよいものを、私は、四十代にはおそらく七つほど常に意識のスクリーンの一部に掲げながら、それらの関係を考え、どのようにして、これを文章という一次元に収めてゆくかという作業にはそれほど不自由しなかった。


おそらく、ミラーの法則がいうとおり、成人は七プラスマイナス二の「チャンク」を使いこなしながら思索することができると一般にいうことができるのではないだろうか。一九六二年に発見されたこの心理法則は深く脳生理学に根ざしているように思われる。 非常に多くの例を挙げることができるが、精神医学に例をとれば一般にユースフルな分類はおおよそ七分類である。それぞれの分類に七つの下位分類を設けることによって、四九分類、それにさらに七つ以下の下位分類を設けることによって三四三分類をこなすことができる。たとえば抗精神病薬は多数あるが、私は長らくこの方法を意識的に用いて全部を記憶することができていた。それは三〇〇よりも少し少ないからである。〔・・・〕


さらに圧倒的大多数の性格分類は三ないし四分類である。 ヒポクラテスから始まって、現代の血液型分類に及ぶ。男女を掛けて八つになる。やはりミラーの法則に従っている。性格が四大別されるという科学的根拠はないので、四大別は微妙な差を認識する際の「脳の都合」であると私は考える。〔・・・〕


実際、ミラーの法則は平等な七というより、四+三、あるいは四×二という内部分化があると私は思う。市内電話番号が前者であり、後者が精神分裂病の分類、八綱弁証、性格分類などである。七つ道具でもメインの四つとサブの三つがあると思う。逆の場合すなわち三+四も同程度によく見られるところである。


ミラーの法則が扱っている対象はチャンクというように、一つの観念内容を入れる容器のようなものであって、その都度、その容器にレッテルを貼って観念とするというほうが妥当であろう。また、この法則は短期記憶にも長期記憶にもあてはまる。 「七つ道具」という場合には、具体物あるいはそのイメージの長期記憶であろうが、 電話番号の場合は純粋な短期記憶の容量であり、性格分類を実際の人間集団にあてはめる場合には、対象から切り取った何ものかは短期記憶に近いものである。

一般に思索においては、どこからか湧いてくる観念あるいはその前段階を脳裡に複数個保持しなければならない。それも、観念、より正確には「その反応ー結合ー融合性の高さ」によって私が仮に「観念のフリー・ラジカル」と呼んできた観念の前段階状態にあるものがむやみに反応し結合するのをある限度以上に抑え、時宜に応じて交代させつつ、保持しなければならない。発言や執筆においては何時間もこの保持を継続しなければならない。ところが観念というものはたえず変形しようとし、他の観念を呼び、また他の観念と結合しやすい不安定なものである。発言や執筆の際には、群がる観念を文章という一次元性のものに整頓しなければならない。それは、われわれと群がり、ともすればあちこちに散らばろうとする学童を一所懸命一列に並ばせようと声をからしている小学校の先生の努力に似ている。その際に、まず観念の数をミラーの法則の範囲内に減らして、それからその相互の関係を考えるという順序となるだろう。この能力が年齢とともにどうなるかである。


私が同時に保持できる「チャンク」の数が減ってきたことを意識したのは五十歳を二、三年過ぎた時であった。これは私の五十一歳が「中仕切り」の年であって、訳詩の能力が結婚式の式辞代わという偶然を契機に出てきた年であり、それが高じて、その一年で翻訳したある詩人の全詩集が三年後に思いがけず重い文学賞を頂き、その他にも多産な年であったために、余計意識されたのであろう。万事そうであるように、私もこの減少を意識したことによって改めて、かつての私が七つ前後の観念を「上場」できていたことに気づいたのである。それができていた当時は、私の意識はもっぱら思考の目標を見据えて観念を操作していて、 上場観念の数などを意識することはなかった。何ごとであっても問題なしという時には意識されない。意識というのはその過程に何かの妨害や限界設定がなされた時の意識の意識として登場するものである。


なお、意識の意識の意識という過程は無限後退的過程であって、逆理的ではないかという意見が古くから存在するが、ポール・ヴァレリーという内省家のノートには「意識の意識」をもう一度意識することはできないという一節があり、誰でもそうだと思うが、無限後退は実際には起こらない。それではどういう過程になるかというと、遺伝情報の発現の制御と同じく、どこかで制御されているものが制御することによって過程は円環として閉じることになるのであろう。 遺伝情報の発現の制御の場合には生産された酵素なり何なりが制御するものに転化するのである。思考の場合は何であろうか。おそらく、それは言語の完成と発語あるいは執筆であろう。特に文字言語はその一次元性によって高度の制御能力を持ち、意識の無限後退を円環的に閉じてくれると私は思う。


ロールシャッハテストの内容は五十歳を過ぎると急速に貧困化するという指摘が思い出された。実際、私は、そのころから同時にせいぜい三個の「観念自由基」しか「上場」できなくなったことに気づいた。現在、これを執筆中に私が「上場」しているのは、せいぜい二つかそこらである。もっとも控えの間ともいうべきところには相変らずはっきりしない数の観念自由基がうごめいている。執筆に際して、ワードプロセッサーがなければ、私は短期記憶の衰退をもっと意識したかもしれない。ワードプロセッサーは臺弘氏が指摘されるように思索のよい松葉杖である。


「ミラーの法則の縮退」は、老人にとって知的・感情的活動の大きな制約となると私は思う。私は自ら「思索の底が浅くなった」と感じる。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



「思索の松葉杖」としてのワープロとあるが、今ならもちろんパソコンだ。ある年齢を過ぎてから、私がパソコンに引用を溜め込んでいるのは、何よりもまずこのせいだ。そして「個人的にのみ」溜め込むだけでなく、ネット上に引用して「象徴的登録」をすることにより、思索の底の浅さを「ある程度は」よりいっそう回避しうることに、2010年代半ばあたりに気づいた。


とはいえ、この回避は相対的なものであり、例えば柄谷行人を読んでいると、特に2010年代以降(シツレイながら)柄谷の「思索の底が浅くなった」のを覿面に感じるね。