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2023年7月20日木曜日

「美しき魂」たちの戦争詩

 

わかってるよ  もともとこっち系なんだろ  お前さんは


記憶せよ、12月8日  高村光太郎


記憶せよ、12月8日。
この日世界の歴史改まる。
アングロサクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の国にして
また神の国たる日本なり。
そを治しめたまふ明津御神なり。
世界の富を壟断するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。
我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさにその爪牙を砕かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
12月8日を記憶せよ。


(昭和16年12月10日執筆、初出「婦人朝日」昭和17年1月号、詩集『大いなる日に』収録)





皇軍頌  北原白秋


轟けよ萬世の道の臣、大御軍、

いざ奮へ、いくさびと、揺りとよむと。

げに猛き醜の御楯、大やまとの

天皇の大御軍、征き向はむ。

空ゆかば身も爆ぜむ百雷、

海ゆかば裂くなだり魚雷。

〔・・・〕


(『大東亜戦争 愛国詩歌集』所収 1942年)



挙りたて神の裔  村野四郎


皇紀二千六百一年

清列な露霜の暁

一大轟音と共に

遂に神々の怒は爆発した

おお吾々の父の

吾々の祖父の万斛の怨は

雷鳴とともに天に冲した

見よ今

逆巻く太平洋の怒涛のただ中に

ガラ ガラと崩れ墜ちる

悪徳の牙城

立てよ 神の裔

今こそ妖魔撃滅の時!

挙り立て 剣を取れ

神霊は天に在り

千古不滅の熔岩の島嶼

神国日本を守るは今なり

おお神の裔 神裔

今こそ

わが富士の大乗巌を護れ!


(「読売新聞」昭和16年12月16日)



若鷲のみ魂にさゝぐ  春とともに  瀧口修造


いまだ 還らず・・・

いまだ 還らず・・・

巨いなる空の涯て

雲は燃え

星はかがやけれど

君はつひに還らず


されど

故里に春はかへりぬ

水温るみ 餅草萌ゆる

あゝ その春のごとくに

ちちははの胸にかへらむ

さとびとの胸にかへりて

はげしくも炎と燃えむ

美まし國の護りとならむ


君は還りぬ


(戦争詩アンソロジー『辻詩集』昭和18年10月)





藤堂はTさんの戦時中の詩にこだわっていた。藤堂はTさんが死んで二年にもなるというのに、まだTさんのことを考えていた。……そしてこのところはっきりとしているのは、Tさんがあの詩を書いたのはどうしてなのか、またあの詩を書くことによって、Tさんがその後どんなに苦しい負担を担ってしまったか、ということをめぐって思いが寄って行くということだった。


Tさんは昭和十六年の三月、三人の警視庁特高警察に寝込みを襲われ、杉並区の留置場に連行されていた。取調べは週に一回程度で、内容は主として、日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と関係があるかどうかの詮議にかけられていた……やがて夏になった。検事拘留となり、若い検事が取調べをやり直すことになるが、問題がシュルレアリスムの本質論と現実政治の関係になってくると、ことは複維となり、検事も困惑した表情を見せるようになる。Tさん自身、シュルレアリスムの政治的局面は得意とするところではなかったはずだ、と藤堂は思った。秋が更けて十一月中旬に、戦時下という時局に際し、今後慎重に行動するようにとの訓戒ののちに、Tさんは起訴猶予処分のまま釈放された。……


十二月八日、真珠湾の奇襲が起る。


多分その翌年の一月はじめに、Tさんは「大東亜戦争と美術」という二ページほどの評論を発表していた。そして多分その次の年の中頃に、「春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ」という詩を書いた。それは十八年の十月出た戦争詩のアンソロジー『辻詩集』に求められての詩作だった。これは名高い詩集だった。ところがTさんの詳細をきわめた自筆の年譜にも、その詩を書き発表したことは記されていなかった。ましてTさん自身、こういう詩を書いたことがあると口にしたことは、Tさんと藤堂のつきあった二十五、六年の間一度もなかった。Tさんは決して口数の少ないほうではなかった……Tさんはこの上もなく自虐的なにがい気持で、「ええいと思って、」一種のしかたのない免罪符を買うつもりで「若鷲のみ魂にささぐ」を書いたのではなかったろうか。……「おれだってこういうとき弁明の詩を書くかも知れない。いや書くだろう」と藤堂は思った。そしてTさんは書いた。しかしこの詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。……


藤堂は「おれにも、無いと思いたい書きものや、行動はいくつもある」と冷静に思うことのできる年齢になっていた。


それにしてもTさんはこの詩にこだわったにちがいなかった。Tさんの戦中についてはよくこういう記述のされ方をした。「一九四一年の春、T氏は、シュルレアリスムと共産主義の関係に目をつけた官憲によって検挙される。この時、すでに美術統制ははぼ完了し、画壇は戦争画の花ざかりを迎えようとしていた。八カ月にわたる拘留ののち、T氏は釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>(自筆年譜のことば)の中で、敗戦を迎える。批評にかかわるT氏の夢は粉々に砕かれ、戦後にもちこされることになる。」しかし夢が砕かれたのは批評にかかわることにとどまらなかったのではないか。詩にかかわる夢も、一度粉々に砕かれてしまったのではないか。……「八月にわたる拘留ののち、釈放されるが、その後、雑誌からの原稿依頼も、友人の訪問も絶え、<深い孤独感>の中で、敗戦を迎える。」――その言い方の一部に、「止むを得ずして『春とともにーー若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきではなかったか。雑誌からの依頼もなく、というのは正しくない。重要な、困った、致し方ないというえば致し方ない、少なくとも二つないし三つの原稿依頼があったのではなかったか。そのことを記入すべきだった。そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるかもしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛感をともなった、別の何かが生れたのではなかったか。このところの藤堂は、何度も繰り返してそう思った。


Tさんはあの自分の詩を分析し、あの詩をめぐって百枚の論文を書くことによって、戦後の再出発をすることもできた。(飯島耕一「遠い傷痕」『冬の幻』所収)