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2023年8月25日金曜日

欲動は人間の本質(デカルト・スピノザ・ニーチェ)とフロイト・ラカン

 

◼️私は精神と身体の結合である

ところで、私が身体を有すること、すなわち、私が苦痛を感覚するときにはその具合が悪く、そして私が飢えまたは渇きに悩むときには食物あるいは飲料を必要とし、等々といった、身体を有することよりもいっそう明白にこの自然が私に教えることは何もない。従ってまたこのことのうちに或る真理が存することを私は疑うべきではないのである。 


また自然はこれら苦痛、飢え、渇き、等々の感覚によって、あたかも水夫が船のなかにいるごとく私が単に私の身体のなかにいるのみでなく、かえって私がこの身体と極めて密接に結合せられ、そしていわば混合せられていて、かくてこれと或る一体を成していることを教えるのである。というのは、もしそうでないとすれば、身体が傷つけられるとき、私すなわち思惟するもの以外の何物でもない私は、そのために苦痛を感じないはずであり、かえってあたかも水夫が船のなかで何かが毀れるならば視覚によってこれを知覚するごとく、私はこの負傷を純粋な悟性によって知覚するはずであり、また身体が食物あるいは飲料を必要とするとき、私は単純にこのことを明白に理解し、飢えや渇きの不分明な感覚を有しないはずであるからである。なぜなら確かに、これら渇き、飢え、苦痛、等々の感覚は、精神と身体との結合[mélange de l’esprit avec le corps]と、いわば混合とから生じた或る不分明な思惟の仕方にほかならないから。(デカルト省察Méditation 「第六省察」三木清訳)




◼️精神と身体の結合としての欲動は人間の本質である

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)


ーー畠中尚志訳では「衝動」と訳されている"appetitus"は、現代スピノザ研究者では"Trieb"とされており、「欲動」に変えた。


Appetitus ist Trieb (Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014)



◼️欲動は精神と身体の境界概念である

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)



◼️私は欲動の身体で話している

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais.] (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



欲動の身体の別名は享楽の身体である、ーー《享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.  ]》 (Lacan, S16, 12 Mars 1969)



◼️私は肉体である

「わたしは肉体であり魂である」ーーそう幼子は言う[»Leib bin ich und Seele« – so redet das Kind.]。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。


さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。

自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と[Leib bin ich ganz und gar, und nichts außerdem; Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.]


肉体はひとつの大きい理性である[Der Leib ist eine große Vernunft]。一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。

わたしの兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である[Werkzeug deines Leibes ist auch deine kleine Vernunft, mein Bruder, die du »Geist« nennst, ein kleines Werk- und Spielzeug deiner großen Vernunft.]

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それ「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。[»Ich« sagst du und bist stolz auf dies Wort. Aber das Größere ist, woran du nicht glauben willst – dein Leib und seine große Vernunft: die sagt nicht Ich, aber tut Ich.]


感覚と認識、それは、けっしてそれ自体が目的とならない。だが、感覚と精神は、自分たちがいっさいのことの目的だと、君を説得しようとする。それほどにこの両者、感覚と精神は虚栄心と思い上がったうぬぼれに充ちている[Was der Sinn fühlt, was der Geist erkennt, das hat niemals in sich sein Ende. Aber Sinn und Geist möchten dich überreden, sie seien aller Dinge Ende: so eitel sind sie.]

だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。この「本然のおのれ」は、感覚の目をもってもたずねる、精神の耳をもっても聞くのである[Werk- und Spielzeuge sind Sinn und Geist: hinter ihnen liegt noch das Selbst. Das Selbst sucht auch mit den Augen der Sinne, es horcht auch mit den Ohren des Geistes.]


こうして、この「本来のおのれ」は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして「我」の支配者でもある[Immer horcht das Selbst und sucht: es vergleicht, bezwingt, erobert, zerstört. Es herrscht und ist auch des Ichs Beherrscher.]

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、それが「本来のおのれ」である。 君の肉体のなかに、 かれが生んでいる。君の肉体がかれである[Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser – der heißt Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」Von den Verächtern des Leibes 1883年)



◼️人間には欲動しかない

力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …


すべての欲動力[alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...


「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……


――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)


力への意志の直接的表現としての永遠回帰[éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance](ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]〔・・・〕

しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


……………………



◼️世界は力への意志以外の何ものでもない

この世界とは、始まりも終わりもない途方もない力[Kraft]であり、増えることも減ることもなく、使い果たされることもなく、むしろただ変転するだけの、全体として不変の大きさの、確固とした揺るぎない量 [Größe ]の力であり、支出も損失もないかわりに、同様に成長も収入もない家計であり、おのれの限界以外には「なにもの」にも限定されず、消滅することも浪費されることもなく、無限に膨張することもなく、むしろ一定の力として一定の空間に収められ、しかもその空間はどこも空虚ではなく、というよりも力として偏在し、諸力の戯れ[Spiel von Kräften]として、すなわち力-波動[Kraftwelle] として、一であると同時に「多」[zugleich Eins und "Vieles"]であり、ここで積み重なると同時にあそこで減り沈み、おのれのなかで吹き荒れ溢れ出す諸力の海[ein Meer in sich selber stürmender und fluthender Kräfte]であり、途方もない年月をかけた回帰と、その諸形態の干満でもって、永遠に彷徨と後退を繰り返し、もっとも単純なものからもっとも複雑なものヘと、もっとも静謐で動じることなく冷厳としたものからもっとも灼熱し荒々しく自己矛盾に充ちたものへと追い立てては、また再び充溢から単純へと連れ戻って、矛盾の戯れから調和の歓びへと引き返し、みずからおのれを肯定しつつ、なおこの同一の自分の軌道と年月からはずれず、永遠に回帰せざるを得ないものとして、いかなる飽食も倦怠も疲労も知らない生成としてみずからおのれを祝福する、永遠なる自己創造と自己破壊のこのわたしのディオニュソス的世界、二重の歓喜のこの秘められた世界、循環の幸福に目的はないという意味で無目標で、自己自身への円環は善き意志を持たないという意味で無意志である、このわたしの善悪の彼岸。ーーあなたはこの世界にとっての名を欲するか、あなたのすべての神秘に対する解決策を?あなたにとっての光であると同時に、もっとも隠された、もっとも強い、もっとも恐れを知らない、もっとも真夜中を? ーーこの世界は、力への意志であり、それ以外の何ものでもない! そしてあなた自身もまた力への意志であり、それ以外の何ものでもない!

Diese Welt: ein Ungeheuer von Kraft, ohne Anfang, ohne Ende, eine feste, eherne Größe von Kraft, welche nicht größer, nicht kleiner wird, die sich nicht verbraucht sondern nur verwandelt, als Ganzes unveränderlich groß, ein Haushalt ohne Ausgaben und Einbußen, aber ebenso ohne Zuwachs, ohne Einnahmen, vom "Nichts" umschlossen als von seiner Gränze, nichts Verschwimmendes, Verschwendetes, nichts Unendlich-Ausgedehntes, sondern als bestimmte Kraft einem bestimmten Raum eingelegt, und nicht einem Raume, der irgendwo "leer" wäre, vielmehr als Kraft überall, als Spiel von Kräften und Kraftwellen zugleich Eins und "Vieles", hier sich häufend und zugleich dort sich mindernd, ein Meer in sich selber stürmender und fluthender Kräfte, ewig sich wandelnd, ewig zurücklaufend, mit ungeheuren Jahren der Wiederkehr, mit einer Ebbe und Fluth seiner Gestaltungen, aus den einfachsten in die vielfältigsten hinaustreibend, aus dem Stillsten, Starrsten, Kältesten hinaus in das Glühendste, Wildeste, Sich-selber-widersprechendste, und dann wieder aus der Fülle heimkehrend zum Einfachen, aus dem Spiel der Widersprüche zurück bis zur Lust des Einklangs, sich selber bejahend noch in dieser Gleichheit seiner Bahnen und Jahre, sich selber segnend als das, was ewig wiederkommen muß, als ein Werden, das kein Sattwerden, keinen Überdruß, keine Müdigkeit kennt -: diese meine dionysische Welt des Ewig-sich-selber-Schaffens, des Ewig-sich-selber-Zerstörens, diese Geheimniß-Weit der doppelten Wollüste, dieß mein Jenseits von Gut und Böse, ohne Ziel, wenn nicht im Glück des Kreises ein Ziel liegt, ohne Willen, wenn nicht ein Ring zu sich selber guten Willen hat, - wollt ihr einen Namen für diese Welt? Eine Lösung für alle ihre Räthsel? ein Licht auch für euch, ihr Verborgensten, Stärksten, Unerschrockensten, Mitternächtlichsten? - Diese Welt ist der Wille zur Macht - und nichts außerdem! Und auch ihr selber seid dieser Wille zur Macht - und nichts außerdem! 

(ニーチェ「力への意志」草稿IN Ende 1886- Frühjahr 1887: KSA 11/610-611 (WM 1067))