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2023年8月8日火曜日

無一文の一人もの青年さながらの姿


『杏っ子』の後書きにこうある。


私には今後これ以上のしごとは出来ないと言ってよい。〔・・・〕

作家はその晩年に及んで書いた物語や自分自身の生涯の作品を、どのように整理してゆく者であるか、あらためて自分がどのように生きて来たかを、つねにはるかにしらべ上げる必要に迫られている者である。〔・・・〕

私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年)


犀星は自分をしらべ上げ、自分をあばいた結果のひとつとして、前回掲げた死の年のエッセイでこう言ったんだ。


相子や奥テル子の足は病室でも毎日見かけているが、他人行儀のよそさんの足を見たのは久しぶりであった。見られていることを知らないでいること、その無関心さであちこちに伸ばされ、くみ合されていて無限な優しいものがあった。常識のゆたかな紳士といわれるような人びとは決して私の表現するようなぐあいには言わないが、あの長いものをすらりと組み合せ、それに何の値をももとめないで在るがままに在らしめていることに、私はむねに痞えているものが一度に下りた気がした。(室生犀星「われはうたえども やぶれかぶれ」初出:「新潮」1962(昭和37)年2月1日号)



もっとも女の足に限定しなくてもよい、例えば《人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか》と言ってもよい。


一人の愛人があればそこから十篇の短篇小説がうまれることは、たやすい、一人の女の人の持つ世界は十人の世界をも覗ぎ見られるものであつて、それ故にわれわれはいつも一人にしかあたへる愛情しかもつてゐない、そのたつた一人を尋ねまはってゐる人間は、死たばるまでつひにその一人にさへ行き会はずに、おしまひになる人間もゐるのである。われわれの終生たづね廻つてゐるただ一人のために、人間はいかに多くの詩と小説をむだ書きにしたことだらう、たとへば私なぞも、あがいてつひに何もたづねられなくて、多くの書物にもならない詩と小説のむだ書きを、生涯をこめて書きちらしてゐた、それは食ふためばかりではない、何とか自分にも他人にもすくひになるやうな一人がほしかつたのである。これは馬鹿の戯言であらうか、人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)



あるいはーー、


われわれは何時も面白半分に物語を書いてゐるのではない。殊に私自身は何時も生母にあくがれを持ち、機会を捉へては生母を知らうとし、その人を物語ることをわすれないでゐるからだ。われわれは誰をどのやうに書いても、その誰かに何時も会ひ、その人と話をしてゐる必要があつたからだ。誰の誰でもない場合もあるが、つねにわれわれの生きてゐる謝意は勿論、名もない人に名といのちを与へて今一度生きることを仕事の上でも何時もつなかつて誓つてゐる者である。(室生犀星『かげろふの日記遺文』「あとがき」1959年)




こういった晩年の犀星に惚れたんだよ、中野重治は《無一文の一人もの青年さながらの姿》、《激烈な晩年、奮闘と斬り死との晩年》等々と言ったけどね。


平静な、「晩年」という言葉に伴いやすい沈静したもの、安らかなもの、生活の流れて行く日々といったものは、衝突を避けて行く老年の知恵といったもののないのとともにそこにはなかつた。むしろ犀星において、それらと反対のところに彼の老年の知恵はあったといつていい。それはもう一度、『打情小曲集』、『愛の詩集』、『性に眼覚める頃』、『結婚者の手記』を通して五十年生きてきた命の中心のものを、七十になんなんとしてもう一度最後に生き返すことであつた。世俗の場合しばしば文学者について見てさえ、老年の知恵とか老熟とかいうことは繰り返しにつながつてくる。あるもの、ある然るべきものの繰り返し、人生上また芸術上の金利生活者ということがそこに出てきがちであるのに対して、この作家は、無一文の一人もの青年さながらの姿で、創造的一回的なものとしてこの生き返しにすすんで行った。上辺の形では、それは老年の知恵の逆だつたとさえいつていい。〔・・・〕


くり返して、生き返しは繰りかえしではない。むろん蓄積はある。それは大きい。しかし創造は、現在にいたる蓄積を一擲してでなくて、全蓄積をそのまま踏み台にしての一歩前進である。『杏つ子』において犀星はほとんどデスペレートにそれを試みた。〔・・・〕

(『結婚者の手記』と比較して)『杏つ子』で問題はここからずつと進んでいる。家庭をまもるなとも破壊しろともいうのではない。ただ作者は、わが家庭と家族とをしらべ、新しい条件下で人間の間題をとらえようとした。『復讐の文学』、『巷の文学』、『あにいもうと』、『神々のへど』の時期を経たものとしてそれをしたのである。作者はもはや小説、虚構ということにかまつていない。ほとんど自伝の体を取り、芥川龍之介、菊池寛などを本名で出し、物語りの展開から道草を食つて、あるいは食いすぎて、さまざまに感慨と意見とを存分に書きこんでいる。子を育てようとする人の親の、特に父親でもあるものの誠意と愚かさとを極限まで描き切ろうと作者はしている。何がこの間に経過して、それが何を残したかを、学者のようにしらべようと作者はしている。粗雑にいえば、作品よりも人生がさきというのがこれを書いている作者の姿である。それだから、大部分の家庭小説のいわゆる大団円はついに現れない。愚かな父親は千々に心を砕いてそれなりである。砕けつ放しである。あたつて砕けろという言い方は必ずしも誠実、計画を予想していない。この場合の平山平四郎は、あらゆる彼の誠実と計画とにおいてあたつて砕けている。そこが創造的一回的である。

こういう晩年は生活力に満ちた晩年といわなければならない。激烈な晩年、奮闘と斬り死との晩年といわなければならない。そこから無限の教えを汲み取ることができるとしても、一般的な規範、教条は、ひとかけらも引き出せぬというのが彼の晩年でありこれらの作品である。(中野重治「晩年と最後」『室生犀星全集』第十巻 後記 新潮社 昭和39年)




………………



いかに排他的な愛でも何か他のものの愛さ、おそらく人はみな。


ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose 」(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)


少なくとも犀星にとってのこの過去の傷は、生母の傷にほかならない。


うすねむきひるのゆめ遠く

杏なる庭のあなたに

なにびとのわれを愛でむとするや

なにびとかわが母なりや

あはれいまひとたび逢はしてよ


ーー室生犀星「杏なる庭」より 昭和18年