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2023年8月8日火曜日

眼は鼻の方に釣られてかすかに物が見える程だつた

 

青空文庫にごく最近入庫していた犀星の小品に、またまたワナワナしちまったな。ある時期以降の犀星の文は蚊居肢子に実にあう、数年前にようやくそれに目覚めたのだが。


奧から中年の女が出て來たが、打木田はピースとバットを續けさまにいひつけ、お釣錢をうけるとき打木田の眼はワナワナふるへた。蒸し上るやうな女のふとつた白さが、眼にはいるよりも内股にうづいて來て、全身に例のワナワナがわいて來た。


奧から十四五の娘が出て來て鍋番らしく、藁を一とにぎりづつに大束から拔いて、何時でも燃せるやうに用意するため、積藁の上に腰を下ろして、思ひきり脛の見える短かいスカートをたぐり上げた。打木田はその足を見るだけで、あへぐやうな氣持であつた。


赤羽の橋をわたる時に打木田は女の手を、自分と彼女の膝の横腹のあひだに、大膽につかまへた。若し女が怒ればあやまり、怒らなければそれでいいんだと思つた。女は取られたままのものを取られたままで、ゐた。打木田は背中まで發情して汗を掻き、眼は鼻の方に釣られてかすかに物が見える程だつた。


上野に着く前、列車が御隱殿坂下の踏切をすぎるとき、打木田は恥をわすれて女の腰を人眼のいそがしい暇を見計つて、抱いた。女はやはりされるままの状態だつた。


それにしても列車の中であつた女はどうしてあんなに手脆かつたのであらう、あんな脆さのある女に眼を放すことが、こはかつた。そしてあんな女に出あふことも二度とはなからうが、早く東京に行つてたづね、仕事にありついてあの女をものにしたかつた。激情はふたたび背中をがりがりと簓でこするやうに、かれをワナワナふるへさせた。


……打木田の眼の底には、列車の中であつた女がなんの拒みもなく抱かせたぬくとい腰が、すなほにかれのゆく手にかがやいてゐた。上野着は十二時近い、明日は逢へる、かれはこれだけを一直線にお腹の下までぞくぞくと感じて、勇躍した。


あの女だつておれが出所者だと聞いたら、いくら何でも、あんなにされるままになるまいと、かれはどんなことがあつても出所者だといふ素性を見破られまいと、心で決めた。新宿で下りるとかれはボストン・バッグを打ちふり、陽氣な足どりでまだ高い日の中を悠然と歩いて行つた。女に逢へる、すべすべした生きた女が抱ける、かれはずつと向うからはやし立てて來たチンドン屋の群が、右と左の列から顏をつき出しては踊つて來るのを見ると、此方まで踊り出して見たかつた。

(室生犀星『鞄』1954年)



1954年ということは、1889年生まれの犀星の65歳の作品だな、オレもこのくらい頑張らないとな。


犀星は1962年に死んでいるが、2年ほど前拾った犀星最晩年の文をここに再掲しておこう。


泌尿科は一階にあったから其処の待合室の大勢の外来患者の前を、私の手押車はしずしず通っていった。人々はこの患者にちょいと眼をくれただけで、何の反応もなく皆自分自身のことで一杯なのが、私にすぐ判って気安い思いであった。外来患者は丁度記念撮影でもするように一室の方向にむいて、順位を待っていたが私は急速に眼を走らせ、何物かを見出した。私が始終見ていたものでもっとも婉曲な形態を持ち、いままでにすっかりわすれていた物であった。それらは幾十人となく強くどっしりと眼にうけとられる物ばかりであって、私は一種のにわかに生ずる喘ぎさえおぼえたくらいだ。それは若い婦人達がうまく男性患者の間にはさまって、盛りあがるような勢でくみ合せた膝から下の裸の足だった。私はそれを暫く見ないでいて今突然に眼にいれるとそれがどんなにも、あつかましい程うつくしい物であることが判った。

相子や奥テル子の足は病室でも毎日見かけているが、他人行儀のよそさんの足を見たのは久しぶりであった。見られていることを知らないでいること、その無関心さであちこちに伸ばされ、くみ合されていて無限な優しいものがあった。常識のゆたかな紳士といわれるような人びとは決して私の表現するようなぐあいには言わないが、あの長いものをすらりと組み合せ、それに何の値をももとめないで在るがままに在らしめていることに、私はむねに痞えているものが一度に下りた気がした。(室生犀星「われはうたえども やぶれかぶれ」初出:「新潮」1962(昭和37)年2月1日号)


・・・だな、最後は女がいいよ。犀星は庭やら陶器やらに寄り道したみたいだけど。


私は寝台の上にあがると例によっておんなのことを考えようとする、時間の消える方法に没しようとしたが、この日どういうわけか、おんなという感覚がちっとも頭に来なくて、茫漠と捉えどころのないおんなのいないおんなの考えに出会した。これはこの日に初めて起ったものではなく、おんながうまく考えあてられたのはほんの二三日しかなくて、あとは今日のようにおんなはさっぱり現われて来ない日ばかりが続いていた。これは私にはもはや毎日おんなを考えようとしても、慾情が枯れかかっていることに原因があること、もはやおんなですら私のたすけになることが稀薄になっていることがわかり、無理にこの思いに突きこんでもむだであることを知った。(室生犀星「われはうたえども やぶれかぶれ」初出:「新潮」1962(昭和37)年2月1日号)


ーーこう書いて室生犀星は1962年3月26日に死去した。


Wikipediaには「3月1日虎の門病院入院」とあって注がついている。


見舞客のうち、福永武彦は面談して、辞去する際次にどこにいくつもりなのか、室生が気にしている有様だったが、中村真一郎は、「男なんかに会ってもしようがない。」と室生が娘に言ったため、ついに入室できなかった。(福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252、中村真一郎「詩人の肖像」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 pp.396-411)