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2023年9月1日金曜日

性のメタファではなく性という現実

 


昨日、森の写真を貼り付けたところで、「ああ、日本の森の匂いが嗅ぎたい」という感慨に襲われたのだが、そう贅沢はいえない。代わりとなるものは何か。


私には巨樹と森の作家藤枝静男への愛があるのだがーー故郷の町近隣の森や神社の描写がふんだんにあるーー、今は藤枝の気分とはちょっと違う。中上健次の作品にはいっそう濃い森のにおいがあったな、と思いつつ、『枯木灘』発表直後のルポルタージュ『紀州 木の国・根の国物語』の文庫本を本棚の奥から探し出しーーなかなか見つからず三十分ほどかかったがーー、久しぶりに繙いてみた。


こう始まる。


紀伊半島を六か月にわたって廻ってみる事にした。


半島とはどこでもそうであるように、冷や飯を食わされ、厄介者扱いにされてきたところでもある。理由は簡単である。そこが、まさに半島である故。


紀伊半島の紀州を旅しながら、半島の意味を考えた。朝鮮、アジア、スペイン、何やら共通するものがある。アフリカ、ラテンアメリカしかり。それを半島的状況と言ってみる。 大陸の下股、陸地や平地の恥部のようにある。半島を恥部、いや征服する事の出来ぬ自然、性のメタファとしてとらえてみた。いや、紀伊半島を旅しながら、半島が性のメタファではなく性という現実、事実である、と思った。たとえば一等最初に降りたった土地、新宮。その土地で半島を旅する男、私が生まれ、十八歳まで育ったので、これまでも新宮と覚しき土地を舞台に小説を書いたが、そこを征服する事の出来ぬ自然、性の土地だと思った事はなかった。 熊野川は女の性器、膣のようにある。尾鷲の、借銭に困った女が、あの上田秋成の『雨月物語』巻之四 「蛇性の婬」の場所、浮島の遊廓に身売りされて来たからだけではない。


そして半島をまわる旅とは、当然、さまざまな自然とそれへの加工や反抗、折り合いを見聞きする旅である。観光用の名所旧蹟には一切、興味はない。私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすことである。

(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「序章」1978年)


ああ、これだ、私が求めていた気分を触発してくれる実に魅力的な力強い始まり、という具合になった。三十一歳の中上健次の文章である。


もういくら読み進めると「美しすぎる」という表現がーーいくらかの間隔をおいてだがーー続けざまに出てくる。



紀州半島、紀州をめぐる旅とは、なにが紀伊でなにが紀なのかを知る旅であり、紀伊半島、紀州の歪みをさぐる旅でもある。その紀州、紀州人に感じている歪みを正直に伝える事に心もとないが、たとえば大逆事件の大石誠之助を愚者と言い、「われの郷里は紀州新宮/渠の郷里もわれの町」(「愚者の死」)と歌う佐藤春夫である。『殉情詩集』の天才詩人として出発し、『田園の憂鬱』等の美しすぎる傑作を書いたが、何やら小説家ではなく天才詩人のまま不帰の人になった気がする。

私の畏敬する谷崎潤一郎より資質や才能が劣っていたわけではない。

春夫をみていると、絢爛と咲くべきだった小説の花が、何ものかに奪われた気がする。花が漢詩漢文脈の方に消えた気がするのである。


それをいまひとつ造語すると、熊野という観念の力とでもなる。

「われの郷里は紀州新宮/渠の郷里もわれの町」熊野という観念の力、熊野という歪みの力は、春夫の生まれたところから五百メートルほどのところで生まれた私にも充分働いているはずである。佐藤春夫論とは一度は試みてみたいテーマではあるが、いまそれを論ずる時ではない。


隠国・熊野は何やら熱がある。

人を破壊する。

山を歩いていると山は美しすぎる。山の突出した岩肌は、ごつごつし、どんなマスラヲも耐えられなくなる。 人の力などしれたものだ、そう思う。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「序章」1978年)



初期佐藤春夫と山の「美しすぎる」。本日はこの序章だけで堪能した。


あとはいくらかパラパラやってると、鉛筆で強く黒線が引いてあるところがある・・・


青年は〔・・・〕中学を卒業して、すぐ十津川の飯場へ行く。 十津川の飯場を転々とする。そこで二年ほど過ごす。

「十津川に行ったのは、まず第一に、印象的にキレイな女おったんですわ」と、一夫さんは言う。「十津川の二津野ダムの工事に行ったんですわ。ダムの工事を専門的に追わえてまわる女郎屋があるんやな。 バラックでね。そこで、酒とその女遊びのヨロコビを覚えてしもてね」

十軒ほどの女郎屋は、山奥にある。「当時、天理教の修業に来てる人は、娘さんが多かったんですわ。その人ら、修業に来て、小遣いがないようになるでしょ、バイトで女郎をやるんやな。こっちは女のために前借り前借りでね。ツケきいたんですわ、その女郎屋が。 いままでみたこともないような金を持っとるでしょ。それでも遊びたいけどお金が足らん。 よし、金のええとこがあるから、と飯場を変わるんですわ。 遊び女に金をつこたらもてるんですわ。ダム工事や隧道工事をやりました。常に危険はとものてましたわな。 発破かけての」(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「和深」 1978年)



いいねえ、この箇所も。とっても。酒と女遊びのヨロコビ。それも死の危険を賭した。捨て身になれたときが一番ヨロコビがあったね。


私は巫女のたぐいが一番エロいんじゃないかとしばしば考えているのだが、もちろん天理教の修業に来てる娘さんたちでもいいさ。


ーー《その人ら、修業に来て、小遣いがないようになるでしょ、バイトで女郎をやるんやな》。最近はどうなんだろうな




というわけで(?)森のにおいは《性のメタファではなく性という現実》であり、股のあいだのきのこの匂いに帰着するのではなかろうか。


カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕


菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。〔・・・〕

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。〔・・・〕


もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)



ーー木の股のあでやかなりし柳かな(凡兆)