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2023年9月4日月曜日

島は女陰のようにある


ふとしたことで中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』を読み返してみたのだが、忘れてるね、すっかり。ああ、こんなことが書いてあったのか、と思う箇所ばかりだな。

古井由吉はこう言っているけどさ


私も長い間読書というものをやってきて、読書への心得があります。それというのは、読んで深い感銘を受けたとしても、やはり一度は忘れなきゃいけないということ。


よく人は嘆くんですね。本を読んでいいなぁとつくづく感激して、俺もこれで変わるかもしれないと思っても、閉じた瞬間、何を書いてあったか忘れる。けれど忘れるというのは、自分の記憶の底に沈めるということなんです。それで、あるいは三年、あるいは五年、十年、ふと思い出して読み返した時に、前とは読み方がまったく違う、深くなっている。


読んだことを記憶するのは学者・研究者の生き方です。ただし、その分だけ彼らは犠牲を払っていると思うんですよ。忘れている暇がないのですから。(古井由吉『書く、読む、生きる』2020年)



でも、私の忘れ方はこれとはかなり違う、たんにしっかり読んでいなかったのに読んだつもりになっていたと言ったほうがいい。今回はじめて深い感銘を受けたよ、おそらく記憶の底に沈める仕方で。


いま私に残っているのは、何よりもまず中上健次という作家の「染まりやすさ」だ、自然に、人に、女に、紀州の闇に。そして母恋。表向きのテーマの被差別部落民の底にはそれがある。


重苦しい文書の合間に、ふと合いの手のように記される言葉に魅了された。


日がかげる。風が海から吹いているのか梢が葉ずれの音をたてて揺れる。


・透きとおった川の水があり、緑が四月の光をうけてある。


・荒れて雑草が丈高く生えたそこに立っていると、それこそ、その地霊が風のような声、草の葉ずれの声で話しかけてくる。


・日に洗われて木々の茂った山は、単に風景というには大きすぎる。言葉が間尺に合わない。


・古座が妣の国であり、その母の一生を視界に入れた言葉の書き手たる息子には空浜はまぎれもなく存在する。波はくだける。波は散る。


・風が吹く。森の樹木が蠕動するように動いている。そこにたとえば折口信夫の『死者の書』のように不死の人が、眠り込み、いま目を開けはじめていると思った。



ああ、なんていいんだろう。もちろん「島は女陰のようにある、と思った」なんてのもとってもいい。


あるいは、ーー


岩が海に迫り、海が激しく光を撥ねる。そんな光いっぱいの枯木灘を、私は思い浮かべ、急に落ち着かなくなる。〔・・・〕


枯木灘。

ボッと体に火がつく気がした。いや、私の体のどこかにもある母恋が、夜、妙に寒いと思っていた背中のあたりを熱くさせている。高血圧と心臓病で寝たり起きたりしている母でなく、 小児ゼンソク気味の幼い私が、夜中、寒い蒲団の中で眼をさますと、今外から帰ってきたばかりだという冷たい体の母がいる。さらにすりよると、母は化粧のにおいがした。母に体をすりよせて暖まってくると、私は息が出来なくなるほど、喉が苦しくなる。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「吉野」1977年)