中上健次の『紀州』は、1977年3−12月朝日ジャーナル連載だから、もう46年前のことなんだなぁ。
新宮をシングウと呼ぶのは、東京弁である。シング、それが正しい。シングウのイントネイションは尻下がりであり、シングは尻上がりである。土地の者で、シングウなどと発音する者はいない。 新宮から熊野川沿いに上ったところにある本宮も、シングと同様、ホングである。 熊野の三社がある土地の二つ、ホング、シングがそうなら、那智も、ナチではない。ナチである。 話し言葉と書き言葉の一致は、いまだかつて充分ではないし、また到底一致するとは思えが、新宮を、シングと発音すると、原初の響きがある。この国の歴史にも、この国のどの地図にも書き記されていない未開の、処女の、原初の土地が、紀伊半島、紀州、熊野の里に在った。そんな気にもなる。 |
その新宮は、何度考えても不思議な土地だ、とこの新宮に生まれた私は思う。 新宮の土地に降りたって、まさに原初の、記紀の時代からこの国の神話に登場するこの土地が、やはりここは異貌の国、大和に平定された隠国というのがふさわしい、と思った。だから、と言ってよい。隠国・熊野だから、この新宮、シングは、いつも様々な貌を持つ。 熊野信仰の中心地でもあったから寺社町であり、紀州藩水野出雲守が治める城下町であった。 熊野川の川口付近に出来た池田港や川原につくった川原町を中心とした交通の宿場町であったし、商業の町でもある。実際とらえどころがない。吉野熊野国立公園の真ん中にある観光の町としてしッテルを貼りつけようとしても、市内に観るべきものもないし、温泉も出ない。 観光というレッテルには間尺があわない。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「新宮」1977年) |
私は紀州をまったく知らないのだが、当時の新宮市はまだ人がたくさんいた。
上の人口数の流れからさらにこう続く。
この加速度的過疎化は新宮市に限らないのだろうが、しかしなんというのか・・・どうなるんだろうね、これからの日本の多くの町は。
1970年代の新宮市の写真をネットで探してみたが行き当たらない。
1960年のものがあったのでここに貼り付ける。
この仲之町商店街は現在はこんな感じらしいね、
もっともむかしは賑わった駅そばの商店街は今ではほとんどどこでもこんな感じなんだろう。私の故郷の東三河の町も似たようなもんだ。もっとも人口はそれほど減っておらず郊外に人が移っているのだが。私の通っていた小学校はかつて一学年4クラスあったのだが、いまは1クラスのみでしかもかつては40数人のクラス生徒数が今は30人弱しかいない。
ああ、
思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ
……………
雨が降っていた。新宮に向かうトンネルを越したすぐのカーブを曲りそこね、車は転倒した。 硝子の全てが破れた。車はグシャグシャになった。胸と腰を打ちつけしばらくガソリンのもれる車内で呼吸する事も出来ずいたが、死ぬ事はなかった。外へ出て、雨の降る道で、一時坐り込み、ふと外傷もなく、なによりも生きている事に気づいて涙が出た。その夜から一日、私は、自分のために、通夜にこもった。 再び旅に出る。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「伊勢」1977年) |
しかしよく死ななかったな、 |