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2023年9月5日火曜日

女に触っちゃいかん

 

通りを左に折れ、まっすぐに歩き、ひとつ目の信号を右に折れた。幾つも重なりあった山がその道からのぞけ、その山の際と次の山の際で空が斬られていた。山を背にして海にひらいた町に面を突き出すように岩肌を見せた山の中腹の神社は、いま秋幸の眼に見えなかった。そこは重なり合う山の入口とも言えるところだった。二十四の厄年の時も、二十五の時も、山の中腹の神社から松明に火をつけて駆けおりる火祭りに秋幸は登った。男の家は、丁度その山の側の高台になったところにある。男は路地から高台に駆け上ったのだった。この土地の誰もがその男のことをそう言った。(中上健次『枯木灘』p73)




由緒正しい祭があるんだな、新宮市には。




このYouTube動画はとってもいいね➡︎「燃える松明を持った男たちが勇壮に...春を告げる「お燈祭り」1400年の伝統(2020年2月7日)」


いい男たちがいっぱい写っている、中上健次が話したような男たちが。



◼️中上健次『火の文学』より

松明というのは神話象徴物なんだけど、その松明を持って、みんなそれぞればらばらに街中へ出ていく。神倉山に登る前にね。つまり、行く人間と帰る人間がすれ違うようになってるわけよ。みんな一斉にむこうへ行っているんじゃなくて、時間がまちまちだから、そうすると当然すれ違うでしょう。そこがいちばん危険なんです。松明を持っているでしょ。みんな怖いわけ、互いに。で、“頼むぜ!”と言って挨拶する。 “頼むぜ!”ってのは、つまり自分が誰かにやられていたら、おれを庇護してくれという意味、あるいは、おれは殴らない、おれはお前の仲間だから頼むよっていうとか、後を頼むとか、まあ一種、許してくれとか、勘弁してくれとか、そういうあれなんです。“頼むぜ!”と言って松明をぶつけ会う、つまり熱気が移るというか、ガーンとやったり、そういうことをするんだけど、これがまた怖いんだよ。むこうの力とこっちの力が大体五分にいかないとね。強すぎて打っちゃうと、このォ! ということになるし、弱く打つと、なんだこりゃ(笑)。暴力のモノを持っている、暴力装置を持っているから、逃げるそぶりをすると、もう一ぺん突っ込むということになりかねない。


ほんと真面目なんだもん。いわゆる農耕の祭り、ピーヒャラドンドンっていう鎮守の祭りじゃないんだもん。みんな真剣に……。身内の不幸のあるところってのは出ちゃいかんと。みんな信じてますよ。要するにその一週間ぐらい前から女に触っちゃいかんとか。実際に守られているかどうか知らんけどね(笑)。


速玉大社の管轄下の、出張所みたいなもんですよ、神倉神社は。速玉大社、阿須賀神社、神倉神社、その三つ、つまり速玉が大社で、あとの二つが神社ね。 ――伊弉諾〔いざなぎ〕、伊弉冉〔いざなみ〕や、素戔嗚〔すさのお〕の霊(神霊)を祠ってある。権現というのは、熊野の神様があちこち放浪して、ここへ降りてきたんですね。伊予のほうから淡路を回って……。


お燈まつりの登り方ってのがあるらしいんですよね。上り子は最初から、つまりおれたちみたいに明日登る登ると言って回らないで、全然もう飽きたっていう感じでさ、登るんか? って聞かれたら、いやー、どうしようかなとか言って、直前になって、もう門が閉っちゃうというときにパッと着替えて駆け足で回ってさ、それで登るという、それが通〔つう〕の登り方なんだって(笑)。


それで介錯というやつがいるんだね。速玉大社のエリアの町内会の連中――奉納会とか奉賛会とかいうそこの連中が介錯人として登るんだけど、そいつらは何を言っても聞かないから。角材を持ってね、問答無用ですよ、ウダウダ言っているとパカッとやられる(笑)。ほんとに袋だたきにする。それはしょうがないんだ。暴力をもって制するという。ぐでんぐでんになっているやつもいるからさ。


白装束着てるし、白い頭巾をかぶってるから顔なんか見えない。みんな同じになっちゃうわけですよ。で、だんだん日が暮れてくるから、大体つまり荒っぽくなってくるという――酒も入ってるし。それで登って、七時ぐらいまでで登りは打ち切り。それに遅れたら登らせない。あんまりひどく酔ってるやつも登らせない。それはもう独裁権が介錯人に――奉賛会という神社の側の連中に与えられているから、そいつらが木刀を持って殴りかかってくるよ。ほんと実力行使っていうか。で、ずうっと登って、ゴトビキ岩というところで、閉じこめられて、延々と待っているわけだよ。で、神火がおりてきて火をつけて、火がいきわたって……。それまで火を見てるわけね。奉賛会の連中が権限を持っている。ころ合いがいいと思ったら、パッと門が開く。そうするとドッと出る。




……………………



※付記


◼️女はタブーである

処女性のタブーは、性生活全体を包含する大きな文脈に属している。女性との初性交だけでなく、性交渉全般がタブーであり、ほとんど女自体がタブーといってもいい。das Tabu der Virginität in einen großen, das ganze Sexualleben umfassenden Zusammenhang gehört. Nicht nur der erste Koitus mit dem Weibe ist tabu, sondern der Sexualverkehr überhaupt


女性の性生活から続く月経、妊娠、出産、産褥の特別な状況においてタブーとされているだけでなく、これらの状況以外でも、女性との性交は深刻かつ非常に多くの制限を受けており、未開人の性的自由と言われるものを疑うだけの理由がある。

確かに原始人のセクシュアリティは、ある時はあらゆる抑制を超越しているが、通常は高次の文化レベルよりも禁止事項によって制限されているように思われる。男は何か特別なこと、遠征、狩り、戦争に参加するやいなや、女性から遠ざかり、特に女性との性交渉を避けなければならない。そうでなければ、彼の力を麻痺させ、失敗をもたらすだろう。日常生活の習慣の中にも、まぎれもなく男女の区別をつけようとする姿勢がある。女性は女性と、男性は男性と一緒に暮らす。多くの原始部族は、私たちの感覚ではほとんど家族生活をしていないと言われている。その分離は時に、一方の性が他方の性の人名を発音することを許されず、女性たちは特別な語彙を持つ言語を発達させるほどである。しかし、ある部族では、夫婦の逢瀬さえも家の外で密かに行わなければならないのである。

原始時代の男がタブーを設置するときはいつでも、或る危険を恐れている。そして議論の余地なく、この忌避のすべての原則には、一般化された女性の恐怖が表現されている。おそらくこの恐怖は、次の事実を基盤としている。すなわち女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものであり、それゆえ敵対的な対象だと。

Wo der Primitive ein Tabu hingesetzt hat, da fürchtet er eine Gefahr, und es ist nicht abzuweisen, daß sich in all diesen Vermeidungsvorschriften eine prinzipielle Scheu vor dem Weibe äußert. Vielleicht ist diese Scheu darin begründet, daß das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig und darum feindselig erscheint.

男は女によって弱体化されることを恐れる。その女性性に感染し無能になることを恐れる。性交が緊張を放出し、勃起萎縮を引き起こすことが、男の恐怖の原型であろう。性行為を通して女が男を支配することの実現。男を余儀なくそうさせること、これがこの不安の拡張を正当化する。こういったことのすべては古い時代の不安ではまったくない。われわれ自身のなかに残存していない不安ではまったくない。

Der Mann fürchtet, vom Weibe geschwächt, mit dessen Weiblichkeit angesteckt zu werden und sich dann untüchtig zu zeigen. Die erschlaffende, Spannungen lösende Wirkung des Koitus mag für diese Befürchtung vorbildlich sein und die Wahrnehmung des Einflusses, den das Weib durch den Geschlechtsverkehr auf den Mann gewinnt, die Rücksicht, die es sich dadurch erzwingt, die Ausbreitung dieser Angst rechtfertigen. An all dem ist nichts, was veraltet wäre, was nicht unter uns weiterlebte. (フロイト『処女性のタブー』1918年)