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2023年9月6日水曜日

俗物どもの血をもち、汚れてはいるがかわいいおまえ

 

私は天王寺を歩き廻りながら、自分がナカガミという姓ではなく、中学卒業するまでキノシタ姓だったのを思い出し、体がしびれる気持ちになる。 実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。 十八歳で東京に出て、私はナカガミと呼ばれ自分でもナカガミと名のった。正直、私に、ナカウエという姓は縁遠かった。義父のナカウエが、 母の連れ子である私を可愛がり、私は実子と何らわけへだてなく何不自由なく育てられたが、私にナカウエという姓は妙に重い。 漢字で名前を書けばナカウエでもナカガミでも一緒だが、自分の事にこだわるが、 ナカガミとは私には抽象的な感じを与え安堵させる。私には冠する苗字がないのだ。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』1978年)


こんな写真に行き当たっちゃったね、





後年の中上健次とはひどくイメージが違うな、





上の写真の長女中上紀さんが次のように説明している[参照]。


この写真は那智の滝での新宮の姉たち家族との写真です。

19歳の頃、上京前後かと思います。

何とも、ぼやっとした表情ををしてます、ね。

(会場から―涼君に似てるね、何ともボーオとした感じが)

そう、弟の涼に似てるかも知れませんね

前の左が2番目の姉、右が3番目の姉。その後ろに立ってる男性が3番目の姉の旦那さん。韓国の方で、非常に父は親しくて、韓国大好きでよく話しをしてました。このころから父は子どもの頃家の近くに韓国の子供たちがいて、その子らと遊んでいたようです。集落の子供たちとはあまり遊ばなかったようです。そのころから仲間外れというわけではないですが、異質であったようです。



次のひどく色っぽい女性が奥さんのようだ。






実は中上健次のお母さんの写真を探していたんだが、ネット上には見当たらないね。



以下、家族をめぐるいくつかの文を列挙。



さて、その犯罪者中上健次の生成課程で重要な役割をはたす、一族の見取図をここで公表しておくことにする。文藝首都の読者にかぎって公表するのだが、ひとつはここを知ってもらわねば犯罪者宣言なんて云っても、またナカガミ一流のコケオドシだと云われそうだと云うことと、僕が露出症のような性格をもっていることに由来する。


図を描いたほうがわかりやすいのだが、母は三つの姓名(木下・鈴木・中上)を名のったのである。僕の兄や姉たちは最初の木下勝三(病死)の血をつなぎ、末っ子の僕だけが鈴木留造の子であった。放蕩者でバクチ好きの鈴木は、他に二人の女をつくって妊ませ、結局、僕には母千里の産みだした郁平、鈴枝、静代、君代の四人と、鈴木留造が女どもに産ませた一人の妹と二人の弟、そしてどこにいるのか生きているのか死んでいるのかわからない幻の妹が一人と、血のつながった兄姉妹でも九人いる計算になる。かくて幼い僕は母につれられて、最後の「父」である中上七郎の庇護をうけ、「父」の子である中上純一らと家庭を構成することになる。


母系一族としか云いようのない、わが流浪一族である。まるで原始時代のような家族構成で、母も父もむきだしのまま僕に迫ってきているわけだ。雑種の最たるものである。わが母系一族は、総力をあげて中上一家と闘い、僕なんぞは文学少年ではさらさらなかったので、中上一家の日常生活への介入にも暴力的に対応してきた。「父」の権威も家も家庭もはじめからありっこないのだ。血統書つきのひよわな二代目や三代目なんぞ、ものの数ではない、と云うのが、犯罪者中上健次の自負である。しかも超過保護で育ったときている。母や姉たちのはなしによると、僕は小学校一年生になってもまだオッパイをのんでいたらしい。小学校二年生まで僕は普通の御飯が食べられず、白飯に砂糖をふりかけてやっと食べ、十五歳ぐらいまで生きられれば良いほうだと云われるほどやせにやせたわがままな子供だったらしいのである。ところが、小学三年生のころから突然肥りだし、肥満児のハシリとあいなり、現代ではサンドイッチにされたデモのなかで機動隊から「そんなゴクツブシをやってないで、機動隊に入れよ。もったいないぞ」と声をかけられるほどになった。


母系一族の犯罪者である僕はまた逆カイン(つまり兄殺し)の末裔でもある。六十年安保の前年、兄は首をくくって死んだのであるが、そのころから僕はグレはじめ、殴ったり殴られたりする血なまぐさい毎日を送るようになった。一度など顔がフットボールほどにふくれあがっていたこともあるし、十数人に中学校の裏山で殴る蹴るの暴行をうけたこともある。その時、中上七郎の妹つまり義理の叔母サメコが僕が袋だたきにあっているのを笑いながらみていた。僕は気絶しそうになりながら、めちゃめちゃに体を動かして抵抗したのだが、いまでもそのころの暴力的な僕自身の夢をみることがある。僕自身、いつでも暴力の衝突の現場にいたいと思うのは、逆カインの末裔にとって、アイデンティファイすることが可能なのは、暴力によってしかないと云う発想があるためなのだと思う。エデンである新宮から追放されて、僕はこの練馬のエデンの東であるノドの地にいるのである。僕はまぎれもない犯罪者だ。(中上健次「犯罪者宣言及びわが母系一族」『文藝首都』1969年4月1日発表)


母ほど徹底して唯物的な人を知らない

母は、長いあいだ息子のぼくが、本を読み小説を書くことを嫌っていた。言ってみれば南瓜の次元ではなく、活字や金銭ではかられる抽象の次元である。母には、本にとりつかれ、文字にとりつかれる人間は、ノイローゼになり自殺するという想像があった。物々交換同様の行商を長い間やっていた母には、物質の次元から身を離すと、必ず不幸がくるという確信がある。名前を出して、小説を書いているということは、人に後指さされることだと言う。人殺しをしたわけではないが、犯罪者といっしょだと言う。


心臓病で顔はむくんでいる。高血圧の為に眠がみえなくなり、もしそのままみえなくなっても姥捨てにもしないのに、それが羞しいと、誰にも打ちあけずしばらく眼がみえるようにとりつくろっていた。


小説とは、しなびた南瓜を、パンプキンパイにも煮物にもすることだ、と言えば不遜だろうか?

なによりも、南瓜というのが、種だ。しんとく丸、信徳丸、身毒丸(弱法師)を、謡曲「弱法師」にするのが、小説家の仕事である。いや、小説のことにことさら限定するのではなく、いま、ここに在ることとは、と言ったほうが、ここちよい。いまここに在ることとは、しなびたひなたくさい南瓜と同じ次元に身をおくことだ。(「萎びた日向くさい南瓜」『野生時代』1975年11月発表)


私の母への愛情の裏に、ぴったりと貼りついた憎悪がある。もちろん、そのような憎悪が一元的なものでなく、それは憎悪というより畏れ、畏れというより思慕というものに変幻するものである事を自覚しているが、事を明せば、映画監督の元で進行している「火まつり」なる映画がそもそもの発端だった。(中略)シナリオも書き終え、前後数回、映画監督が新宮に顔を出し、青年の出演を決めたようだった。ただ決定したと思っていたのは、私だけかもしれない?映画監督は例のヌラリタラリで、青年に直接、決定したと言っていず、青年の方も、独得な保身術で、映画と土方の両方に、二股をかけていたらしいのである。映画に出演が決定した時、突然、義父か義兄に言い出そうと思っていたのだろう。


結局、どう転んでもドジでバカな目に会うのは私で、青年が元に復したのはすべて話しての事だと思っていた私は、義父や母との雑談の席で、青年が映画に出るのはよい事だと言ってしまった。義父はえっと驚き、次に、何の悪意で自分の組の人夫を引き抜くのだ、という意味の口ぎたない罵言雑言としか言いようのない言葉を浴びせかけた。母がその数倍の悪意で、青年の祖父の代にまで遡った悪を言いはじめ、私はただただ打って一丸となって火の玉となって、青年の映画出演ををたき潰そうとする老夫婦を見ているだけだった。


二十四歳で自殺した兄は、酔った勢いで暴れ込んできて、酔いがさめた時にはじまるこの自己中心的な罵署雑言と悪意にたたき潰されたようなものだった。

 

母の悪意によって、青年は見事にひんむかれ、祖父の代からなまっくらで、二心のある煮ても焼いても食えない男となった。「岬」や「枯木灘」「鳳仙花」に出てくるフサとは大違いで、露骨である。


聞いているうち腹が立ち、憮然としたまま家を出て、そのまま、映画監督と青年を呼び出し、青年にすぐ、映画に出るから組にバイトのつもりで戻ったのだ、そうでなかったらいまごろ船に乗っているのだ、と言って来い、と言った。二人は出かけていった。出処進退のはっきりしないヌラリクラリが通じると思っているよく似た二人である。(中上健次「もうひとつの国・光と翳」1983年10月1日所収)


母は元気であった。いや、いまこの原稿を書いている二日の午後十一時、母は湯上りの髪にタオルをまいて、「健次、これをネネにかけたれよ」とタオルケットを持ってくる。はやく寝ればいいのに、ぼくが起きてるものだから、熊のようにシュミ-ズ一枚でうろうろしている。


「うちに来てくれとった加藤さん、いまヤクルトいっしょうけんめい配っとる加藤さんが、まあ、奥さん、と言うんや。みんな紫陽花は花もち悪りと、花ざかりを切ってきてちょっと萎んだら、これはもうあかんとポイとすてるが、わたしは、その時ああそうかいとうまあわせるけど、そんなこと嘘やで。殺生やわ。奥さん、紫陽花が萎れても水に一晩つけたりなあれよ。そう言うんで、だまされたつもりでやってみた。ほんま、また生きなおした。それで思たんや、ああ病気もこういうんと一緒やな。医者というのは、水みたいな役をしてくれるんやな。裏の石垣にね、鳳仙花の落ち生えがあったんやのに。ちょっとしか土がないとこに。わしは他の人みたいに花なら咲いとる花だけ美しとは思わせんの。それで裏へ洗濯もの干しに行くとき、その鳳仙花みまもった。大丈夫やろか? おまえもえらいとこに根ェおろしたもんやね。いっつもそう一人で話しかけてみとったん。それがねェ、えらいもんや、土から根がとび出して、いまにも引き抜けてしまいそうやのに、太い茎になった。大丈夫やろか、花つけるやろか?そしたらな、他の花畑のに劣らんほど鈴なりに花つけてな。実イつけて枯れた」


そう語る母の孫は、ぼくの二人の娘をいれて十二人いる。普段は、夫婦二人で広くがらんとした家が、夏休みになるころから、さながら雨天体操場とも変わりはじめ八月十二、三あたりが毎年のことながらピークとなり、父と母の家は子供であるぼくたちの孫でゴッタ返す。(中上健次「鳳仙花の母」『さんでージャーナル』1974年8月発表)




ちなみに『枯木灘』にはこうある。


自分には名前が三つある、と秋幸は昔思ったことがあった。実際にそうだった。

秋幸はフサの私生児としてフサの亡夫の西村という籍に入り、中学を卒業する時に、義父の繁蔵が自分の子として認知するという形で竹原の籍に入った。その男は浜村龍造と言った。秋幸は子供の頃から、自分がその男やその男の子供とは無関係だと思っていたのにもかかわらず、浜村という言葉を耳にし眼にするたびに体がほてる気がして、それが不思議だった。自分と顔、体つきがよく似ていた。男がいま暮らしているヨシエとの間の子の誰よりも、秋幸が似ているのは認めていた。今もそうだった。(中上健次『枯木灘』1976年)



……………



最初期の作品からもいくつか掲げておこう。


僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』1967年)


『海へ』は『文藝首都』第三十六巻九号、昭和四十二年九月に発表されたものであり、1946年生まれの中上健次の21歳の作品だ。


僕はすべてのものを憎んでいる。姉を悲しませ、兄を殺し、僕をまでも辱しめ苦々しく窒息させたすべてのものを憎んでいる。あの頃から僕は僕自身のための神話をなくしたのだ。僕の体には、人々にみすてられた廃屋の井戸のように雑草がぴっしり生えはじめたのだ。〔・・・〕

僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな屍のことも僕は忘れない。 (中上健次『海へ』1967年)


おまえは僕の体に吐き気のようなぬくもりを与えつづけたまま、在る。俗物どもの血をもち、汚れてはいるがかわいいおまえ。僕はおまえとこれから何万回の性交をしたとしても、おまえを許しはしない。 おまえを僕のあのかつての熊野川のような清らかな流れをもつ血液の中に受け入れはしない。 お城山の棘々のいっぱいある雑草たちの放つあの若い草いきれのような僕の精液を、おまえの体内にそそぎこみはしない。 (中上健次『海へ』1967年)

僕はすでに溶けこもうとする。 僕にとっての唯一の他者である海に、そして、僕自身である海に同化しようとする。〔・・・〕海よ、この僕を狂わせろ、おまえの潮つぶに同化させろ。〔・・・〕海、僕の海、おまえはすばらしい。おまえはもう僕だけの海だ。〔・・・〕お、おおお、海よ、僕の海よ、おおお、射精・・・・・・言葉が僕を殺すのではない、ほんとうの射精だ、おおお。 (中上健次『海へ』1967年)





結局、ここに帰着するんじゃないかね、


岩が海に迫り、海が激しく光を撥ねる。そんな光いっぱいの枯木灘を、私は思い浮かべ、急に落ち着かなくなる。〔・・・〕


枯木灘。

ボッと体に火がつく気がした。いや、私の体のどこかにもある母恋が、夜、妙に寒いと思っていた背中のあたりを熱くさせている。高血圧と心臓病で寝たり起きたりしている母でなく、 小児ゼンソク気味の幼い私が、夜中、寒い蒲団の中で眼をさますと、今外から帰ってきたばかりだという冷たい体の母がいる。さらにすりよると、母は化粧のにおいがした。母に体をすりよせて暖まってくると、私は息が出来なくなるほど、喉が苦しくなる。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「吉野」1977年)



80年代以降の中上の作品に惑わされてはならない。路地は母だよ、イマジネールな母ではなくリアルな母。路地は母の名だ。



 

異者としての身体の別名は母なるマレビト。路地はマレビト、母なるマレビトだ。これは事実上、ヒトはみなそうなのだが、中上健次においてはそれが赤裸々に現れている。


心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


ーー唐突ついでに、路地は女陰のようにある、と言っておこう。



有馬とは神話の場所である。かつては在馬、 在摩とも文字をあてはめた。 ここも記紀の時代からある土地である。花の窟とは、イザナミノミコトが火の神を生み、女陰を焼かれて死に、それを祭った場所である。その大きな岩は、そこがもし黄泉と現世をへだてるヨモツヒラサカの場所であるとしても、暗い感じではない。日があくまでも濃い。一体何の力が作用してこうなったのかと声を呑むほどの表面が平らな大きな岩は、また外海からの目印でもあると言う。たしかに、人の眼に女性器のようにも見える。女性器をホトと呼ぶのは面白い。ホムラ。ホデリ。 火が火と発音されて女性の力が語感にこもる。(中上健次『紀州 木の国・根の国物語』「有馬」1978年)

四方を海に取り囲まれ、遊廓は、自然に出来た塀の中にある。人工的な塀なら、外は見ないかもしれないが、自然の海の塀なら、そこから串本が見え、潮岬のある岬の町が見え、すこし行けば古座が見える。 すぐ後ろは、隠国の山々が、日を浴びて白く光っている。海に取り囲まれている事が物狂おしい。いや、違うと思った。親たちの借銭のために売られ、性を知った女郎らは、その自然を呼吸し、その自然に同化し、性という自然と反自然の溶け合うもので、男らを籠絡しようとしたはずだった。島は女陰のようにある、と思った。そして、気づいた。串本節ならぬ大島節は、籠絡された男らの歌である。 女郎、遊女という陰の女らへの恋歌である。この陰をふまえて、大島はある。(同上「紀州大島」)



アッタリマエさ、路地がマレビトであり女陰のようにあるのは。あの場は母系の極みなんだから。



路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』1976年)

俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)