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2022年12月25日日曜日

母の名について

質問をもらっている。何度か示してきたことだが、今までのは帯に短し襷に長しのものしかないので、ここに質問の答えになるようにほどよい長さの文を掲げる。

……………


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! [« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


ーーこの二文から「ひとりの女なる症状は身体の出来事」となる。この症状は現実界の症状「サントーム」である。


ラカンが上のように言った段階ではまだ「サントーム」概念はなかった。サントーム概念を初めて提出するのは1975年11月である。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


引き続き1976年2月に次のように言う。

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)


したがって「ひとりの女なるサントームは身体の出来事」となる。


サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)



この文脈のなかでジャック=アラン・ミレールの次の注釈がある。



確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。

だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


女性の享楽は享楽自体=身体の出来事の享楽とあるが、これは先に見たようにラカンが言っている通りである。《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel.]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)のだから。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)



身体の出来事がトラウマかつ固着であるのはフロイトの定義通り。


病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


身体の出来事としてのトラウマへの固着と反復強迫とあるが、これが現実界の症状サントームである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


以上、享楽自体としての女性の享楽は、固着の反復である。



ところで、初期幼児期に起こる「身体の出来事としてのひとりの女」とは具体的には何か。


現実界の享楽自体としてのサントームはモノのことである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)



モノとは母なるモノであり、サントームがモノの名とは、サントームは母の名Le sinthome est le nom de la Mère]ということである。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


ーー《母はモノの場に来る[la mère vient à la place de das Ding]》 (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 23/03/99)



したがって「サントーム自体=現実界の享楽自体」としての女性の享楽は「母の名の反復」となる。より厳密には母への固着の反復である。


我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


残滓の意味については、「モノセット簡潔版」を参照されたし。





最も簡潔に言えば、ラカンの現実界の享楽はフロイトの固着である。そしてラカンのサントームはフロイト用語で言えば、幼児期の外傷神経症である。


外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. ]

これらの症者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する[In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation;]

(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)

トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]……ここで外傷神経症[traumatische Neurose ]は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々は幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを認めなければならない[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)


ーー《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert (…)  une répétition de la fixation infantile de jouissance. ](J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



固着概念のもういくらか詳細は、「固着とは何か」を参照。


以上。