このブログを検索

2023年9月19日火曜日

人を愛して泣かないで済むことを想像する方が難しい

 


私はその二、三日石神井の檀一雄のところに泊っていたが、そこからコマ村まで近いから、でかけてみようじゃないかと一決した。〔・・・〕

まったく夢を見るような一日であった。フシギと云えばお伽噺のようにフシギであった。一年にたった一日のお祭りのその前日の稽古に行き合わすとは。「正月の十五日にお祭りはないのですか」 ときいてみると、「正月十五日にはヤブサメのマネゴトのようなものをやるにはやりますが、お祭りは一年に明日だけです。むかしは九月十九日でしたが、養蚕期に当るので、十月十九日にやるようになったのです」 との答えであった。(安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― 、1951年)


ーーとあるね。で、思い出しちゃったね、ライスカレー事件を。


1951(昭和26)年 45歳

〔・・・〕

10月18日、檀と文春の中野修と3人で埼玉の高麗神社を取材。競輪事件の顛末を記し、証拠写真のグラビア付きで出版する計画を立てる。 


11月4日、多量のアドルムを服用したため半狂乱に陥り、檀宅へライスカレーを百人前注文させる。同月16日、極秘裡に向島の三千代の実家へ移る。以後3カ月半を三千代の娘の正子、母の松、妹の嘉寿子、弟の達介たちと過ごすことになる。(安吾年譜:七北数人)



坂口三千代さんと檀一雄の記述なら次の通り。


……ライスカレーを百人まえ注文にやらされた〔・・・〕。檀家の庭の芝生にアグラをかいて、坂口はまっさきに食べ始めた。私も、檀さんたちも芝生でライスカレーを食べながら、あとから、あとから運ばれて来るライスカ レーが縁側にズラリと並んで行くのを眺めていた。当時の石神井では、小さなおそばやさんがライスカレーをこしらえていて、私が百人まえ注文に行ったらおやじさんがビックリしていたがうれしそうにひき受けた。としをとったおかみさんをトクレイしながら、あとからあとから御飯を炊いて、ライスカレーを作っては運んでくる姿が思い浮かぶようだ。それをまた、私たちはニコリともせずに一生懸命に食べた。十人足らずの人で、ムロン百人まえは食べきれなかった。いまはオカシクてしようがないような気持で思い出される。(坂口三千代『クラクラ日記』1967年)

「おい、三千代、ライスカレーを百人前……」

「百人前とるんですか?」

「百人前といったら、百人前」

 云い出したら金輪際後にひかぬから、そのライスカレーの皿が、芝生の上に次ぎ次ぎと十人前、二十人前と並べられていって、

「あーあ、あーあ」

 仰天した次郎が、安吾とライスカレーを指さしながら、あやしい嘆声をあげていたことを、今見るようにはっきりと覚えている。(檀一雄『小説坂口安吾』1969年)



最近は作家ーーいや作家は曲がりなりにもいるだろうから文士ーーその文士がいなくなったからこういった愉快な話はきかないね。でも愉快な人物がいなくなるはずないから、いま彼らはなにやってんだろ? 映画監督? いやたいした噂はないなア、どこにいったんだろ? それとも現在のように女が強くなりすぎると愉快な人物いなくなるんだろうかね。




あとで泣くなというけれども私は泣くことは覚悟している。人を愛して泣かないで済むことを想像する方が難しい。まして坂口のような人と暮して泣かないで済むだろうとは思わない。彼は好きなように生きる人だ。(坂口三千代『クラクラ日記』)






生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。


家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。


安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。(石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)





「私くらいお前を愛してやれる者はいないよ。お前は今より人を愛す事があるかも知れないけど、今よりも愛される事はないよ」それは説得するような調子であった。私はしかし、それが本当の事だろうと思う。彼よりも私を愛してくれる人に再び会う事はないだろうと思う。 (坂口三千代『クラクラ日記』1967年)

終戦後、久須美は私に家をもたせてくれたが、彼はまったく私を可愛がってくれた。そしてあるとき彼自身私に向って、君は今後何人の恋人にめぐりあうか知れないが、私ぐらい君を可愛がる男にめぐりあうことはないだろうな、といった。 


私もまったくそうだと思った。久須美は老人で醜男だから、私は他日、彼よりも好きな人ができるかも知れないけれども、しかしどのような恋人も彼ほど私を可愛がるはずはない。〔・・・〕


私は誰かを今よりも愛すことができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。燃える火の涯もない曠野のなかで、私は私の姿を孤独、ひどく冷めたい切なさに見た。人間は、なんてまアくだらなく悲しいものだろう、馬鹿げた悲しさだと私はいつもそんなときに思いついた。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 初出:1947年10月5日)






ーーと引用すると芋蔓式に次々と出てくるな、安吾だけでなく三千代さんの懐かしい言葉が。



彼は亡くなるまで「青鬼の褌を洗う女」という作品を大切にしていた。それは作品の出来、不出来に関係はない。人に聞かれてあなたは御自分の作品中代表作はといわれると、「代表作などというものはないです。人が決めるものです」という。


ではお好きなのはと聞くと、「青鬼の褌を洗う女」という風に答える。


彼が時たま彼の部屋で仰向けに寝て「青鬼の褌」を読んでいるのを見た。


私はそんな時、私を愛しているからだろうか、と思ったりするのだが、違うかも知れないと思ったりもする。彼があの小説を愛するのは彼のあの当時の感動を愛しんでいるのかも知れないと思う。(坂口三千代「クラクラ日記」)


彼の孤独と向き合っていると、その淵の深さに身ぶるいすることがある。誰もひとを寄せ付けない。彼はいつもたった独りでいるような心のありさまで、お酒を飲んでわあわあと言ってる時でも、その奥にたった独りの彼が坐っている。私はそれをちゃんと見抜くことができる。私はいったい彼の何なんだろう。〔・・・〕

彼の孤独と向き合っている私はやはり孤独であるのが当然だった。不思議なのは彼が悪鬼のように猛り狂う時、私のこの孤独感がふりおとされることだった。彼が私をののしりわめいている時、私はいつだって動転するが孤独ではなかった。〔・・・〕


彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。

(坂口三千代『クラクラ日記』)





私の女房は前夫との間に二人の子供がある。又、前夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。〔・・・〕


私は、一度だけ、女房に云った。「オレの子供じゃないだろうと疑っているのだ」「疑ってるの、知ってたわ。疑るなら、生まないから。ダタイするわ」「ダタイするには及ばないさ。生れてくるものは、育てるさ」「誰の子かってこと、証明する方法がある?」「生れた後なら判るだろう。血液型の検査をすればね」 私はこう云い残して、催眠薬をのんで眠ってしまったから、女房が泣いたか怒ったか、一切知らない。〔・・・〕


女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。 ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。 


私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。〔・・・〕


恋愛などは一時的なもので、何万人の女房を取り換えてみたって、絶対の恋人などというものがある筈のものではない。探してみたい人は探すがいゝが、私にはそんな根気はない。


私の看病に疲れて枕元にうたたねして、私ではない他の男の名をよんでいる女房の不貞を私は咎める気にはならないのである。咎めるよりも、哀れであり、痛々しいと思うのだ。 


誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。〔・・・〕

女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)








1950 (昭和25)年 44歳

3月頃、妻三千代の妊娠が判明するが、自分の子とは信じられず、この頃から再びアドルムを飲みはじめ暴れるようになる。尾崎士郎や三千代の妹嘉寿子らの仲介で気持ちを鎮めるが、三千代は出産する気がなくなり堕胎。

1953 (昭和28) 年  47歳

(7月)25日から8月5日頃まで、「決戦川中島」の企画で檀一雄と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留中、檀の留守中に荒れだし、ついには留置場に入れられる。 


8月6日、長男綱男誕生。そのしらせを留置場から出てすぐに聞かされる。同月10日すぎに帰宅。20日、カフェ・パリスで乱暴行為に及び桐生署の留置場へ入れられる。この事件は地元紙だけでなく全国紙各紙でも報じられた。


24日、桐生市長宛の詫び状、三千代との婚姻届、長男出生届を市役所に提出。

1955 (昭和30) 年


2月11日から高知へ取材旅行。15日に飛行機で東京に着く。桐生行きの電車が出るまで浅草の染太郎にいて、三千代とまだ1歳半の綱男と電話で話し、最終電車で帰宅。高知産のサンゴのネックレスとペンダントを三千代の誕生祝いにプレゼントする。その箱の裏に「土佐ニ日本産サンゴあり 土佐の地に行きてもとめ 三千代の誕生日におくる 一九五五 安吾」と揮毫したのが事実上の絶筆となる。〔・・・〕

2月17日早朝7時55分、桐生の自宅で脳出血により急逝。享年48(数え年では50歳)。

(安吾年譜:七北数人)








いま考えれば貴方は死ぬためにもどられたようなものですね。十五日の晩おそくお勝手口の方からもどられて、「オーイ」と云ったのであわてて私はとび出して行きました。


そしておどろいたのは顔がちいさく茶いろく見えたことでした。つかれているなと思いました。鞄をあわてて受取ると「坊やは」とお聞きになった。「ええ起きておりますよ、待たしておいたのよ」と答えると、よほど嬉しかったらしく、何遍も坊やを抱きあげながら「よかった、よかった」とくりかえしおっしゃった。(坂口三千代『クラクラ日記』)