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2023年10月9日月曜日

被害者と加害者

 

古井由吉は面白いこと言ってるね、1982年のことだけれど。


こんなこと言うとおこられるかも知れないけど、私小説の特徴って、主人公が被害者なんです。ぼくの小説をよく読んでいただければわかるんだけど、被害者の主人公はいないんですよ。被害者の立場にぜったい立っていない。


どういう目にあって、どうしのいだかっていう感情から書くでしょ、私小説は。ぼくの場合は、それはできるだけ抑えて、できればもう目に見えない加害者の立場で書こうとする。


もう一つ、私小説の性格的な特徴として、自分の言うことには必ずみんなが耳を傾ける、小声で微妙に言えば言うほど人は耳を傾ける、ということがあると思う。ぼくの小説にはそれはない。微妙なことを言いたかったら、その微妙さをはっきり書かなくちゃいけない、という立場です。 文章がしつこくなるけどね。


志賀直哉でしょう。あの文章というのは、何を言っても人は耳を傾ける、という文章ですね。その点で言うと、私は坂上弘や阿部昭とずいぶん違うんじゃないかと思いますね。

むしろ何を言っても人は聞いてくれないからできるだけきちんと言わなきゃいけないと、そういうような立場です。だから、いつもなかなか聞いてくれない。何を言っても聞いてくれない、という感じ方としては後藤明生に近いんじゃないかな。


漱石、鴎外、荷風、秋声その辺までは文語文と口語文がどうにかつながっていた。それを、自分の感想を正直に言えば文章になるっていう形で、志賀直哉は日本の文体の流れを断ち切ってしまった。これじゃあ文体はできないと思うんですよね。


ぼくはひょっとするとここしばらくは小説がうんと衰えて、小説らしい小説はどんどん後退していって、エッセイと小説のはざ間あたりの小説が多くなるんじゃないか、それを過ぎなければ物語が出てこないんじゃないかって思うのです。(古井由吉「早稲田文学」1982 年 5 月号) 



今でも被害者の立場で書いている人が多いんじゃないか、これは小説家のことだけじゃなくて。そして、「被害者は最も残酷な加害者になりうる」[参照




……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。


社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収)