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2023年11月28日火曜日

崇高の表象の不可能性、あるいは原抑圧された崇高の表象

 

カントは「崇高の表象の不可能性」を言っているわけで、アウシュヴィッツの表象自体、崇高の表象だよ。


◼️崇高の表象=深淵

自然における崇高の表象に遭遇して、心は動揺を感じる。他方、自然における美についての美的判断は、安らぎを与える観想のなかにある。崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。


Das Gemüt fühlt sich in der Vorstellung des Erhabenen in der Natur bewegt: da es in dem ästhetischen Urteile über das Schöne derselben in ruhiger Kontemplation ist. Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章)


◼️崇高=不快=不可能性

崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている。対象を判断する能力についての不快である。だが同時に合目的である。この合目性を可能とするものは、主体自身の不可能性が無限の能力の意識を掘り起こし、かつ心はこの不可能性を通してのみ、無限の能力を美的に判断しうるから。


Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust über das ästhetische Beurteilungsvermögen an einem Gegenstande ist, die darin doch zugleich als zweckmäßig vorgestellt wird; welches dadurch möglich ist, daß das eigne Unvermögen das Bewußtsein eines unbeschränkten Vermögens desselben Subjekts entdeckt, und das Gemüt das letztere nur durch das erstere ästhetisch beurteilen kann.  (カント『判断力批判』27章)




崇高は不快とあるが、フロイトラカン派においては、この崇高が欲動つまり享楽だ。



◼️欲動=不快=不安=トラウマ=喪失

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



◼️享楽=不快=穴=トラウマ=喪失=欲動

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)




で、フロイトは「抑圧された欲動」と言っている。つまり欲動とは常に抑圧されているが、その抑圧された「欲動=不快=不安=トラウマ=喪失」を取り戻そうとする身体的運動だ。


抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)

エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


で、抑圧された欲動というが、厳密に言えば、原抑圧された欲動であり(➡︎原抑圧と後期抑圧」)、これがラカンが原抑圧は穴(享楽=欲動=不快=トラウマ=喪失)と言っている意味だ。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



ここでカントの崇高に戻って言えば、崇高の表象は原抑圧されているが、人はみなその表象を取り戻すそうとする。これが先のフロイトがゲーテの『ファウスト』を引用して、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」の意味だ、つまり崇高の表象を是が非でも回復しようとするのだ。


以上はあくまでフロイトラカン派の観点だが、連中においてはこれは「常識」だよ、イチャモンつけてくるヤツがいたら、いまさらなんだって言うだろうな。


………………


これは何もフロイトラカン派だけの話ではなく、柄谷行人は『世界史の構造』でカントの次の文に依拠しつつ、カント版ボロメオの環とトラクリ以来のボロメオの環を並置している。


感性的直観の多様を結合するのは想像力(構想力)であるが、想像力は、その知的総合の統一に関しては悟性に、把捉の多様に関しては感性に依存する。


das Mannigfaltige der sinnlichen Anschauung verknuepft, Einbildungskraft, die vom Verstande der Einheit ihrer intellektuellen Synthesis, und von der Sinnlichkeit der Mannigfaltigkeit der Apprehension nach abhaengt.(カント『純粋理性批判』)



この環を60度右回転させて、崇高の表象のポジションを示せば、次のようになる筈(というのはラカンは同じポジションを「穴」ーーすなわちカントの崇高=深淵ーーと示しているから)。








ラカンは穴をȺと書くが、上の穴Trouは厳密にはS(Ⱥ)という記号が置かれる。S(Ⱥ)、すなわち穴の表象である。



私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ,](Lacan, S13, 09 Février 1966)

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)


Ⱥ の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant,  S(Ⱥ)  ]  (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)

S(Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーーce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)

大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)

ーー大他者は存在しないとは「欲望は存在しない」(穏やかに言えば「欲望は欲動の見せかけ」)を含意する、《欲望は大他者に由来する[le désir vient de l'Autre]》(Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年)。すなわちS(Ⱥ)とは人には実は欲動しかないことを示している。これはニーチェが既に言っている、《すべての欲動力[alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...》(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)



なおフロイトラカンにおいて穴、つまりトラウマというとき、通常に把握されているだろうトラウマよりはもっと大きな意味があるので注意。トラウマの穴とは身体の出来事である、ーー《トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]》(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)ーーおそらく崇高の出来事が、心の出来事ではなく身体の出来事であるように。



少なくとも私の脳髄においては、トラウマの穴と崇高なる深淵は等置されている。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)

おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」1885年)