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2024年1月28日日曜日

ウンベルト・エーコの原ファシズム(永遠のファシズム)


ウンベルト・エーコの原ファシズム(永遠のファシズム)Umberto Eco - L'Ur-Fascismo (Il Fascismo Eterno)の14項目は次の内容のようだ(私はこの『永遠のファシズム』を読んでおらず、昨日英訳で覗いてみたばかり)。以下は三島憲一氏による要約[参照]。


1)伝統主義。ごたまぜ。古いほど知恵があるとする妄想 

2)非合理主義(啓蒙主義や理性の否定) 

3)行動重視。反=文化 

4)批判の拒否(混合主義の特徴)

5)異質性の拒否。人種差別 

6)欲求不満に陥った新たな多数派 

7)内部と外部の陰謀推定(ユダヤ人。近隣の外国)

8)敵の軽視 

9)闘争の重視と平和主義の拒否(永久戦争。解決後の平静はありえない) 

10)ヒエラルキーによる大衆エリート主義(「抑圧の移譲」) 

11)英雄的な死の崇拝(実際は無関係な他者に死をもたらす) 

12)女性蔑視、純潔要求。非画一的な性習慣への嫌悪。最終的には男根崇拝の現れとしての武器崇拝 

13)反議会主義。質的ポピュリズム 

14)新言語 Ingsoc. 大衆的トークショウなども含む





で、12と13だ、気になったのは。


12は和田忠彦氏の邦訳ではこうなっているらしい(これもネット上で拾ったものであり正確な訳文の写しか否かは不明)。


12 永久戦争にせよ、英雄主義にせよ、それは現実には困難な遊戯ですから、原ファシストは、その潜在的意志を性の問題に擦りかえるわけです。これが<マチズモ>(女性蔑視や、純潔から同性愛にいたる非画一的な性習慣に対する偏狭な断罪)の起源となります。ですが、性もまた困難な遊戯にちがいありませんから、原ファシズムの英雄は、男根の<代償>として、武器と戯れるようになるわけです。戦争ごっこは、永久の<男根願望>に起因するものなのです。


「潜在的意志」となっている文は、英訳では"the Ur-Fascist transfers his will to power to sexual matters."であり、「力への意志」だ。この邦訳はちょっとまずいんじゃないかね、と思い、前回も記したが伊原文にあたってみたわけだ。


12) Dal momento che sia la guerra permanente sia l'eroismo sono giochi difficili da giocare, l'Ur-Fascista trasferisce la sua volonta' di potenza su questioni sessuali.


È questa l'origine delmachismo (che implica disdegno per le donne e una condanna intollerante per abitudini sessuali non conformiste, dalla castita' all'omosessualita'). Dal momento che anche il sesso e' un gioco difficile da giocare, l'eroe Ur-Fascista gioca con armi, che sono il suo Ersatz fallico: i suoi giochi di guerra sono dovuti a una invidia penis permanente.


私は伊語を知らないが、"volonta' di potenza"ぐらいはわかる、ニーチェの力への意志だと。こう訳してエーコの文ははじめて意味が鮮明化される。



13はこうだ。これは訳文にイチャモンをつけるつもりは(それほど)ないが、「質的ポピュリズム」の意味を見るために掲げる。

13 原ファシズムは「質的ポピュリスム」に根ざしたものです。民主主義の社会では、市民は個人の権利を享受しますが、市民全体としては、(多数意見に従うという)量的観点からのみ政治的決着能力をもっています。


原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量(「質」の間違い:引用者)として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです。人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意志をもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。委託権を失った市民は行動に出ることもなく、<全体をあらわす一部>として駆り出され、民衆の役割を演じるだけです。こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなるわけです。いまでは質的民衆主義の格好の例を、わざわざヴェネツィア広場やニュルンベルク競技場にもとめる必要はありません。わたしたちの未来には、<テレビやインターネットによる質的民衆主義>への道が開けているのですから。選ばれた市民集団の感情的反応が「民衆の声」として表明され受け入れられるという事態が起こりうるのです。質的民衆主義を理由に、原ファシズムは<「腐りきった」議会政治に反旗をひるがえすにちがいありません>。ごく初期にムッソリーニがイタリア議会で行った演説に、こんなくだりがあります。「このものも聞こえぬくすんだ議場を、わが中隊の野営の地に変えてみせてもよかったのだ」。事実、かれはすぐさま中隊にとって最高の宿舎をみつけたのですが、それから間もなくして議会を解散させてしまいました。議会がもはや「民衆の声」を代弁していないことを理由に、政治家がその合法性に疑問を投げかけてるときは、かならずそこに原ファシズムのにおいがするものです。


13) L'Ur-Fascismo si basa su un “populismo qualitativo” : In una democrazia i cittadini godono di diritti individuali, ma l'insieme dei cittadini e' dotato di un impatto politico solo dal punto di vista quantitativo (si seguono le decisioni della maggioranza).


Per l'Ur-Fascismo gli individui in quanto individui non hanno diritti, e il “popolo” e' concepito come una qualita', un'entita' monolitica che esprime la “volonta' comune”. Dal momento che nessuna quantita' di esseri umani puo' possedere una volonta' comune, il leader pretende di essere il loro interprete. Avendo perduto il loro potere di delega, i cittadini non agiscono, sono solo chiamati pars pro toto, a giocare il ruolo del popolo. Il popolo e' cosi' solo una finzione teatrale. Per avere un buon esempio di populismo qualitativo, non abbiamo piu' bisogno di Piazza Venezia o dello stadio di Norimberga. Nel nostro futuro si profila un populismo qualitativo Tv o Internet, in cui la risposta emotiva di un gruppo selezionato di cittadini puo' venire presentata e accettata come la “voce del popolo”. A ragione del suo populismo qualitativo, l'Ur-Fascismo deve opporsi ai “putridi” governi parlamentari. Una delle prime frasi pronunciate da Mussolini nel parlamento italiano fu: “Avrei potuto trasformare quest'aula sorda e grigia in un bivacco per i miei manipoli.” Di fatto, trovo' immediatamente un alloggio migliore per i suoi manipoli, ma poco dopo liquido' il parlamento. Ogni qual volta un politico getta dubbi sulla legittimita' del parlamento perche' non rappresenta piu' la “voce del popolo”, possiamo sentire l'odore di Ur-Fascismo.




しばしば触れられるエーコの「永遠のファシズム」だが、ま、私に言わせれば、たいしたことが言われているわけじゃない。結局、人間は社会的動物であり、集団化して「結束化=ファシズム化」するんだ。言ってしまえば、カール・シュミットとフロイトが既に言い切っていることだ、➡︎集団心理の基本とファシズム







そもそも政治運動したらファシズムはほとんど避けようがないんじゃないかね、私が好んで引用してきたクンデラがあるが。



サビナは学生時代、寮に住んでいた。メーデーの日は全員が朝早くから行進の列をととのえる集会場に行かねばならなかった。欠席者がいないように、学生の役員たちは寮を徹底的にチェックした。そこでサビナはトイレにかくれ、みんながとっくに出ていってしまってから、自分の部屋にもどった。それまで一度も味わったことのない静けさであった。ただ遠くからパレードの音楽がきこえてきた。それは貝の中にかくれていると、遠くから敵の世界の海の音がきこえてくるようであった。


チェコを立ち去ってから二年後、ロシアの侵入の記念日にサビナはたまたまパリにいた。抗議のための集会が行なわれ、彼女はそれに参加するのを我慢することができなかった。フランスの若者たちがこぶしを上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいた。そのスローガンは彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった。

サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写していると言おうと思った[Elle voulait leur dire que le communisme, le fascisme, toutes les occupations et toutes les invasions dissimulent un mal fondamental et universel ; pour elle, l'image de ce mal, c'étaient les cortèges de gens qui défilent en levant le bras et en criant les mêmes syllabes à l'unisson. ]

しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)



もっともこれを言ってしまったらオシマイのところがある。ときには、ーーとくに現在のようなジェノサイドが公然と起こっている時にはーー、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列に加わる必要悪を否定するわけにはいかない。



私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年)


「権力を批判する道具」となることを引き受けたら、場合によっては「政治の生け贄」になりうる。

私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)


丸山真男の「政治的なもの」をめぐる文にも「全体主義化」の危険が語られているが、政治運動においてこれをどうやって避けうるんだろ?


政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)



「権力を批判する道具」を効果的に機能させるためには、「こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列」という結束=ファシズムに加わざるを得ないのではないか。



そして権力者がトンデモ畜類である場合、どうしたって「我こそは正義だ!」という絶叫漢、青バエに陥ることは避けづらい・・・






およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽となり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

Es giebt kein härteres Unglück in allem Menschen-Schicksale, als wenn die Mächtigen der Erde nicht auch die ersten Menschen sind. Da wird Alles falsch und schief und ungeheuer


権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ!」とーー。

Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -〔・・・〕


ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気!

allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem -: pfui, unter dem Gesindel leben,  - pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年)