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2024年4月26日金曜日

キニスルナヨ

 


私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年)



少し前ーー今年の1月8日ーー、加藤周一の『羊の歌』から次の文を引用したが、結局、キミは降参かい? そうだろうよ、ワカルヨ、なんたってキミの顧客は《飲食の評判をしたり、最近の下着の流行の話》が好きな《権力の道具》側の人間が殆どだろうからな。


私はいわゆる内幕話や、特別の情報と称するものを、好みもしなかったが、また知りもしなかった。「南京虐殺」のことさえ、私がそれを知ったのは、日本の軍国主義が崩れ去った一九四五年以後のことにすぎない。「南京虐殺」だけではなく、私はそのときまで、強制収容所や、ドゥレスデンや、広島で、何人の婦人・子供・非戦闘員が殺されたのかも、知らなかった。いや、最近になって、ある新聞記事を読むまでは、南ヴェトナムの子供たちがどれほど殺されたのかということも、ほとんど知らなかった。「一九六一年から六六年まで、ナパームで爆撃された南ヴェトナムの村では二五万人の子供が死んだ」とその新聞の記事は報告していた、「七五万人が手肢をもぎとられ、負傷し、火傷を負った……」(記事のもとになったのは、米国のカトリックの学校で、子供のための研究所を指導していた人のヴェトナム視察報告である。)そこに書かれていた数字は、正確ではなかったかもしれない。しかし故意に誇張されていたのではなかっただろう。たとえ殺された子供が、二五万人でなく、実は二〇万人であったとしても、三〇万人であったとしても、そのことの意味に変わりはない。それをどうすることも私にはできない。とすれば、なんのために、遠い国のみたこともない子供たちのことを、私は気にするのであろうか。――その「なんのために」に、私はみずからうまい返答を見出すことができない。


新聞記事を読んだ日の夕方に、私は旧知の実業家とハンガリア料理の店で、夕食をしていた。〔・・・〕久しぶりで会った私たちは、飲食の評判をしたり、最近の下着の流行の話をしていた。(実業家の若い妻君は、そういうことに詳しかった。)私はそういう話が少しつづいたところで、「どうも経済的繁栄の第一の徴候は、瑣末主義のようですな」といった。私はそれを、自ら嘲りながら、皮肉な冗談としていったのである。しかし実業家の妻君は、それを真面目な非難としてうけとったらしい。「それはどういう意味ですか」と彼女は笑わずに反問してきた。「ヴェトナム戦争の真最中に、私たちが出会って、流行の袖の長さが一糎長いか短いかという話をしているということですよ」と私は説明した。「いいじゃないか」と実業家はいった。「二五万人の子供が殺されている、という話を知っていますか」「ぼくは信じないね」「そう気軽にいいなさんな」と私はいった、「そもそもあなたは、ヴェトナム戦争についてはどんな初歩的なことも知らないのでしょう。交戦している一方の側の言分は漠然と知っていても、他方の側の言分は一度も読んだことさえない。ジュネーヴ協定の内容も、三国監視委員会の公式報告も見たことがない。それでは、私のいったことが、ありそうもない、と考える根拠もないでしょう。基礎資料を見もしないで、ぼくは信じない、などといっているから、あなた方は、ナチが何百万人も殺してしまった後になって、強制収容所と毒ガス室のことは知らなかった、といい出すのだ。彼らは知らなかったのではなく、知りたくなかったのだ。あなたが信じないのではなく、信じたくないのだ……」。


「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和にたのしんで暮したいのだ」とその実業家はいった、「知ったところで、どうしようもないじゃないか」――たしかに、どうしようもない。しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知りたい」という人間とがあるだろう。前者がまちがっているという理くつは、私にはない。ただ私は私自身が後者に属するということを感じるだけである。しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、また少なくとも、出発することがある、ということにすぎない。二五万人の子供……役にたっても、たたなくても、そのこととは係りなく、そのときの私には、はるかな子供たちの死が気にかかっていた。全く何の役にもたたないのに、私はそのことで怒り、そのことで興奮する。……(加藤周一『羊の歌』「古きよき日の想い出」 P167-169 、1968年)





皮肉で言ってるんじゃないんだ、人間ってのはそういうものだということが言いたいだけだ。自分が売れるのが第一だからな、


公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』1896年)


ヴァレリーみたいなこと言ってたら、生涯カネに不自由するよーー彼は実際そうだったらしい。


次の文もしばしば引用してきたがね、《すべての職業が屈辱である》、あるいは《文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かうしかない》というやつだが。


「社会的な存在形態としては、映画監督は映画を撮る職業だから映画を撮っているにすぎない。そしてそのことによって、すべての職業が屈辱である」と、大島渚氏は著書に書いていますが、作曲家である私もその苦い意識から遁れようはないのです。


作曲家という表現行為が否応なく職業化して制度に組み込まれていく。〔・・・〕

作曲家は、すくなくとも私という作曲家の現状は、お便りにあったような<他者の拘束から自由に、自分の内なる理法と感興にだけ従って飛翔し、音という質量も外延もない世界を築いてゆく>ようなものではありません。寧ろその後で指摘されているように、<作られたものを、演奏家や聴衆という「他者」に強制する次の瞬間に、作曲家を待ち構えているかもしれない戦慄の深さ>に怯える存在です。

私はけっして音と触れることの、また、音楽することの喜びを失ったわけではありません。それを知っているから、却って音楽を作る専門家であることを疑わないではいられないのです。


音楽を創る者と、聴かされる大衆という図式は考えなおされなければならないでしょう。しかもそれはきわめて積極的にされなければならない。これまで、疑うことなく在りつづけたこの図式は、別の新たな関係の前に破壊されるでしょう。そうでなければ文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かうしかない。(武満徹-川田順造往復書簡『音・ことば・人間』1980年)



キミだけの話じゃないから安心したらいいさ。このところ文学関連の連中の囀りをいくら観察してみたがね、詩人の松下新土くんが以前(2024年1月24日)に次のように言ってたのが気になってさ。





ほとんどの連中はジェノサイドのことなんか無視して、あるいはよくてもお愛想程度に触れるだけで、先のヴァレリーのテスト氏曰くの《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する》をやってるだけさ。



もちろん文学関連だけではないさ、昔も今も変わらないんだよ、日高六郎が言ってるような事態は近未来の台湾有事でも反復するに違いないよ。


文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。


あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。

僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。(日高六郎『映画日本国憲法読本』2004年)


というわけで、《知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。》(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)、ーーま、これ自体、少なくとも現在は日本だけの話じゃないね、「主人はマネー」の世代は世界中みなそうさ。ジャアナ!