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2024年5月15日水曜日

ドゥルーズの遺言をまったく無視した美学的ドゥルーズ研究者の流行

 

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ここで柄谷が言っているのは、ディコンストラクション、つまり脱構築(デリダ)や知の考古学(フーコー)などのいわゆる現代思想は、冷戦期にはそれなりに有効に機能したが、冷戦終了後の新自由主義(剥き出しの市場原理主義)の時代には、資本主義の自己脱構築機械ーーなぜなら《資本とは自己増殖する貨幣》(柄谷行人『トランスクリティーク』[参照])だからーーの代弁者に過ぎないものになってしまったということである。


実際、身近なところで、現代思想に影響を受けたらしい日本の思想家の現在の有様を僅かでも見てみたらいい。連中はあたかも資本主義の掌の上で踊る猿の如く、経験論的思考に耽っている、特に美学的に。なかには、ウクライナ紛争にもガザジェノサイドにもまったく触れないままの「思想家」さえいる。


なぜそうでありうるのかね、ある時代以降に育った宿命なんだろうか。ドゥルーズの遺言をまったく無視した美学的ドゥルーズ研究者が最近は流行りのようだが。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。

Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、1993年


いやこの死の2年前のインタビューの発言でなくてもよい、1980年の『千のプラトー』の記述を思い起こすだけでよい。


問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争を所有(盗用)するかということである [La question est donc moins celle de la réalisation de la guerre que de l'appropriation de la machine de guerre. C'est en même temps que l'appareil d'Etat s’approprie la machine de guerre]〔・・・〕


国家戦争を総力戦にする要因は資本主義と密接に関係している「les facteurs qui font de la guerre d'Etat une guerre totale sont étroitement liés au capitalisme ]。

現在の状況は絶望的である。世界的規模の戦争機械がまるでSFのようにますます強力に構成されている[Sans doute la situation actuelle est-elle désespérante. On a vu la machine de guerre mondiale se constituer de plus en plus fort, comme dans un récit de science-fiction ;](ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年)