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2023年3月16日木曜日

資本の休みなき欲動ーーあるいは柄谷のマルクス


ふと気になって調べてみたら、「資本の休みなき運動」に関わって、一般的には「絶対的な致富衝動」と訳されてきた表現ーー柄谷が言い換えた資本の蓄積欲動(資本の欲動)ーーは、マルクス自身、Trieb(欲動)という語を使っているようだ、絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]と。

独語TriebはTreiben (駆り立てる)であり、ニーチェも「力への意志」を説明する文脈でこの語を使っている、ーー《すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...]》(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888


◼️休みなき[rastlose」絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]

使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動[rastlose Bewegung des Gewinnens]でしかないのだ。こういう絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]ーーこういう情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通のものではあるが、しかし貨幣蓄蔵者が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な貨幣蓄蔵者である。 貨幣蓄蔵者は、価値の休みなき増殖[rastlose Vermehrung des Werts]を、貨幣を流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。

Der Gebrauchswert ist also nie als unmittelbarer Zweck des Kapitalisten zu behandeln . Auch nicht der einzelne Gewinn, sondern nur die rastlose Bewegung des Gewinnens. Dieser absolute Bereicherungstrieb, diese leidenschaftliche Jagd auf den Wert ist dem Kapitalisten mit dem Schatzbildner gemein, aber während der Schatzbildner nur der verrückte Kapitalist, ist der Kapitalist der rationelle Schatzbildner. Die rastlose Vermehrung des Werts, die der Schatzbildner anstrebt, indem er das Geld vor der Zirkulation zu retten sucht, erreicht der klügere Kapitalist, indem er es stets von neuem der Zirkulation preisgibt.

(マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節)




以下、何度も引用してきた文だが、柄谷の『トランスクリティーク』から再掲しておこう。



◼️資本の蓄積欲動(資本の欲動)

資本主義は経済的下部構造というようなものではない。それは、 人間の意志を超えて人間を規制する、あるいは、人々を互いに分離させ且つ結合する或る「力」であり、それはむしろ宗教的なものである。 マルクスが生涯にわたって解明しようとしたものがそれであることはいうまでもない。 《商品は、一見したところ、わかりきった平凡な物に見える。だがこれを分析してみると、きわめてめんどうな物、形而上学的な小理屈や神学的な偏屈さでいっぱいの物であることがわかる》(『資本論』 第一巻第一篇第一章第四節、鈴木鴻一郎他訳、「世界の名著5」、中央公論新社)。マルクスはもはや狭義の「形而上学」や「神学」を問題にしていない。しかし、彼は「わかりきった平凡な物」の中にこそ、それを見出している。これは、真の思想家だけがもつような認識である。おそらく、 史的唯物論はーーそれがもしマルクス主義ならマルクス主義はーーマルクスなしに可能であったといっても過言ではない。しかし、『資本論』のような書物はマルクスなしには決して存在しないだろう。〔・・・〕


マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」――相対的価値形態と等価形態――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなくて、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。


しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。〔・・・〕


彼は、資本を、貨幣ー商品ー貨幣という「一般的範式」において見る。それは資本を根本的に商人資本として見ることである。資本とは自己増殖する貨幣であり、 G - W - G' という運動の過程としてある。産業資本においては、このWの部分が原料・生産手段および労働力商品になる。 そして、労働力商品こそ産業資本に固有のものである。 産業資本の剰余価値は、たんに労働者を働かせることによってではなく、総体としての労働者が作ったものを労働者自身が買い戻すことにおける差額から得られる。とはいえ、原理的には商人資本と同じことである。 古典派経済学は、商人資本主義 (重商主義)を攻撃し、それを詐欺(不等価交換) と見なした。だが、商人資本は異なる価値体系の間でなされる交換から剰余価値を得るとしても、それぞれの価値体系の内部での等価交換にもとづいている。商人資本が空間的な差異から剰余価値を得るとしたら、産業資本は技術革新によってたえず異なる価値体系を時間的に作り出すことによって剰余価値を得るのである。むろん、それは産業資本が商人資本的活動から剰余価値を得ることを妨げない。 資本にとって、剰余価値はどこから得られてもかまわないのだ。要は、資本は、価値体系の差異から、それ自体は等価交換によって、剰余価値を得るということである。したがって、剰余価値は利潤と違って不可視であり、それが得られるプロセスはブラック・ボックスの中にある。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」、2001年)




◼️資本のはてしない運動と貨幣(商品)のフェティシズム

なぜ資本主義の運動がはてしなく(endlessly)続かざるをえないか、という問い〔・・・〕。実は、それはend-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。


マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのである。ちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章「綜合の危機」P325-326、2001年)




※注記


①「貨幣(商品)のフェティシズム」とあるのは、貨幣のフェティシズムと商品のフェティシズムは事実上等価だから。


貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs. (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)



②柄谷が「資本とは自己増殖する貨幣であり、 G - W - G' という運動の過程としてある」のは、次の意味。

・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. 

(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



この剰余価値⊿Gこそ、事実上の「商品のフェティシズム」である。

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)



よりわかりやすい柄谷を引用して補っておこう。

資本とは自己増殖する貨幣である。マルクスはそれを、まずG - W - G'(貨幣―商品―貨幣)という範式に見いだす。それは商人資本である。それとともに、金貸し資本 G - G' が可能になる。マルクスはこれらを「大洪水以前からある」 資本の形態だといっている。だが、商人資本に見出される範式は産業資本にも妥当する。 産業資本においては、Wの部分が異なるだけだからである。それはマルクスの言い方でいえば、 G - (Pm+A) - G' である (Pmは生産手段、Aは労働力)。 産業資本が支配的になった段階では、商人資本はたんに商業資本となり、金貸し資本は銀行あるいは金融資本となる。だが、資本を考えるためには、 G -W - G'という過程を見ることからはじめるべきである。資本とはたんに貨幣ではなく、こうした変態の過程全体である。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章「移動と批判」)

ヘーゲルにとって、市場経済(市民社会)は「欲求の体系」である。いいかえれば、彼には、市場経済が倒錯的な資本の「欲動」によって形成されていることが見えていなかった。その意味で彼は古典経済学者と同じである。一方、マルクスが明らかにしようとしたのは、資本制経済が一つの幻想的な体系であること、そして、それが G - W - G' という資本の運動によって生じること、さらに、その根源に貨幣(交換可能性の権利)を蓄積しようとする欲動ーーそれは財貨を得ようと欲求や欲望と異なるーーがあることを示すことである。そのために彼は価値形態にまで遡ったのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章「移動と批判」)

くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。


しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」p323~)



マルクスにおいて資本とは次の形だということを柄谷は再三繰り返している、ーー《資本とは自己増殖する貨幣であり、 G - W - G' という運動の過程としてある》




私はG′(G+⊿G) を分解して次のような三角形の永遠の反復運動として示すのを好む。




実際、米国ネオコンの軍産複合体や医産複合体に代表される官産複合体の内実は、上のような休みなき資本の運動となっている。商品の項に武器や医薬品などを代入するだけでいい。



③先の柄谷はG - W - G'(貨幣―商品―貨幣)という商人資本だけでなく、金貸し資本 G - G'も示しているが、これはマルクスの次の記述に由来する。


貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態、貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕


G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)



要するに、G - G'とは資本フェティッシュのことである。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)



例えば世界資本主義の典型的体現者「世界経済フォーラム(WEF)」がやっている内実は、G - W - G'(貨幣―商品―貨幣)以上に、このG - G'という資本フェティッシュの金儲けでありうる。



………………


さらに重要なのは、このフェティシズム(商品のフェティシズム・貨幣のフェティシズム・資本のフェティシズム)は、経済的なものだけに限らず、あらゆる記号ーーなかんずく言語ーーに関わることである。


マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



この柄谷の二文は、ラカンの次の発言と相同的である。


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)


より詳しくは、➡︎柄谷・ラカンによる「人はみなフェティシスト」


………………



『トランスクリティーク』は理論的には実に優れている、『世界史の構造』や直近の『力と交換様式』よりもおそらくずっと。


単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」)




『トラクリ』は、まずイントロダクションがあり、第一部が「カント」、第二部が「マルクス」という構成になっているが、てっとりばやく柄谷のマルクスを掴むためには、イントロを読んだ後、第二部のマルクスに向かったほうがいいかもしれない。たぶん多くの人は、難解なところが多い第一部の「カント」で挫折して、第二部の「マルクス」を十分に読み込めていないように感じる。