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2024年6月28日金曜日

リベラルは破壊的カルト(ドゥーギン)

 

◾️アレクサンドル・ドゥーギン 2024年6月27日

Sony Thang

@nxt888

Message posted by Professor Aleksandr Dugin, Russian philosopher, on his Telegram channel, June 27, 2024.

Source: t.me AGDchan apophatic concepts online

リベラルは単なるナチスではなく、もっと悪質で、もっと危険で、もっと卑劣で、もっと陰湿だ。


これは想像を絶する破壊的なカルトである。


あらゆる形態の集団的アイデンティティから個人を解放するという考えは、人間性の直接的な安楽死である。


自由主義(=資本主義)は、その最初の段階から、まさにこれであり、それ以外の何ものでもなかった。


Liberals are not just Nazis; they are much more worse, more dangerous, meaner, and more insidious.


This is the most destructive cult one could imagine.


The idea of liberating the individual from all forms of collective identity is direct euthanasia of humanity.


From its very first steps, liberalism (=capitalism) was exactly this and nothing else.




以下は何度も繰り返してきたものだが、ドゥーギンの言っていることに不感症の人たちのために再掲しておく。




◾️ニーチェの「自由」

今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこそ「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・

Man lebt für heute, man lebt sehr geschwind – man lebt sehr unverantwortlich: dies gerade nennt man »Freiheit«. Was aus Institutionen Institutionen macht, wird verachtet, gehaßt, abgelehnt: man glaubt sich in der Gefahr einer neuen Sklaverei, wo das Wort »Autorität« auch nur laut wird. Soweit geht die décadence im Wert-Instinkte unsrer Politiker, unsrer politischen Parteien: sie ziehn instinktiv vor, was auflöst, was das Ende beschleunigt...

(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第39節『偶像の黄昏』所収、1888年)




◾️柄谷行人の「自由主義と世界資本主義」

自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)



◾️柄谷行人の「自由主義と民主主義」

人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。


それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。

歴史的にいって、アテネの民主主義(デモクラシー)は貴族支配(アリストクラシー)に対立するものである。それは異質な且つ外国とつながる貴族の支配の否定である。また、それが奴隷を除外していることはいうまでもない。このデモクラシーが独裁者(僭主)を生み出すことがあるとしても、それは貴族支配とは別である。デモクラシーのみがそのような独裁者を可能にするのだから。ある意味で、プラトンのいう哲学者=王とは、そのような独裁者である。〔・・・〕

自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


◾️岩井克人の「自由と資本主義」

自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


◾️マルクスの「資本主義」

“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)