しかしキミたちはよく平然としてられるな、日々実況生中継の大虐殺に。あの米国に率いられた集団的西側のガザジェノサイドに。
熱い血がまったくないのかね。
もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という心持ちはまったくないようだな、 |
たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で十年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い締めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。 |
これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないであろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究者全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私は決してそうはいわない」ということで、けっきょく教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまで行った。これはまたしてもジャーナリズムに出さないということで成功した。札幌医大から来た富山さんと私と二人で、5階建ての新ウィルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命の後の権力のもてあそびは、こんな小さな改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。(中井久夫「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」) |
最近の若いのは自極と対象極が接近したままなのかね
幼年期や老年期の連中はやむえないよ、自らに引き籠もっていても。たとえばフロイトラカンにおいて「主体の起源は自閉症」だからな。でも成年期や中年期のやつらだ、キミたちは幼年期のままなんだろうか。ツイッターを眺めるとどうもそうとしか思えないよ。
老年期の俺でも集団的西側の政治家の顔写真を垣間見るだけで熱い血が溢れだしてやまないのだがね。ある意味、キミたちが羨ましいよ。