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2024年7月21日日曜日

中国文化と日本文化の相違

 

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ははあ、すごいね。私はこういう景色を見てスゴイと感じるだけで、こんなところに住むのは御免被る、日本の庭の傍らに住むほうがずっといいや、と思うタチだが。

とはいえ中国には石川淳の言うような人材がまだたくさんいる筈だがな、


黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。明の袁中郞に至つては、酒席の作法を立てて、つらつきのわるいやつ、ことばづかひのぞんざいなやつは寄せつけないと記してゐる。ほとんど軍令である。またこのひとは山水花竹の鑑賞法を定めて、花の顏をもつて人閒の顏を規定するやうに、自然の享受には式目あり監戒あるべきことをいつてゐる。ほとんど刑書である。按ずるに、面貌に直結するところにまで生活の美學を完成させたのはこの袁氏あたりだらう。本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。詩酒徵逐といふ。この美學者たちは詩をつくつたことはいふまでもない。山水詩酒といふ自然と生活との交流現象に筋金を入れたやうに、美意識がつらぬいてゐて、それがすなわち幸福の觀念に通つた。幸福の門なるがゆゑに、そこには強制の釘が打つてある。明淸の詩人の禮法は魏晉淸言の徒の任誕には似ない。その生活の建前かれいへば、むしろ西歐のエピキュリアンといふものに他人の空似ぐらゐには似てゐる。エピキュールの智慧はあたへられた條件に於てとぼしい材料をもつていかに人生の幸福をまかなふかといふはかりごとに係つてゐるやうに見える。限度は思想の構造にもあり、生活の資材にもあり、ここが精いつぱいといふところで片隅の境を守らざることをえない。しかし、唐山の士太夫たる美學者はその居るところが天下の廣居といふけしきで、臺所はひろく、材料はいろいろ、ただ註文がやかましいために、ゆたかなものを箕でふるつて、簡素と見えるまでに細工に手がこんでゐる。世界觀に影響をあたへたのは、この緊密な生活に集中されてエネルギーの作用である。をりをり道佛の思想なんぞを採集してゐるのは、精神の榮養學だらう。仕事は詩をつくることではなく、生活をつくることであり、よつぽど風の吹きまはしがよかつたのか、精神上の假定が日日の生活の場に造型されて行くといふ幸運にめぐまれて、美學者の身のおちつきどころは神仙への變貌であつた。人閒にして神仙の孤獨を嘗めなくてはならぬいといふ憂目にも逢つたわけだらう。もつとも、人閒のたのしみは拔目なく漁つた揚句なのだから、文句もいへまい。すでに神仙である。この美學者たちが小説を書く道理は無かつた。大人の説、小人の説といふ。必ずしも人物の小大のみには係らないだらう。身分上より見れば、士太夫の文學、町人の文學といふように聞える。士大夫の文學は詩と隨筆とにほかならない。隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収、1952年)




ここで在庫のなかから中国文化と日本文化の相違を指摘する文をさらにいくつか掲げておく。

中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。

(加藤周一『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」1975年)


日本の文明が、かつて中国のそれの圧倒的な影響を受けて展開したものだということは、知らぬものはない。文学、宗教、学問、政治の制度等々。その結果、両国の間には多くの共通性があり、類似点ができた。にもかかわらず、日本は中国と、ひどく、ちがう。

中国の土地を踏み、はじめて北京に足を入れての私の最大の感想は、「ここは日本と何とちがうところだろう」ということだった。私は、中国を見るより、ずっと前から、何回かヨーロッパに旅行した人間だが、その私からみれば、中国は日本よりずっとヨーロッパに近かった。「中国旅行とは、ある意味では、第二のヨーロッパに出会う旅行のようなものだった」というのが、私の偽らざる感想である。

(吉田秀和『調和の幻想』「紫禁城と天壇」1981年)


中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収)




以下、冒頭の加藤周一の文の前後を長く引用する。



日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。 たとえば『万葉集』は同時代の仏教のどんな理論的著述よりも、奈良時代の人間のものの考え方をはるかに明瞭にあらわしていたといえるだろう。 摂関時代の宮廷文化は、高度に洗練された和歌や物語を生みだしたが、 独創的な哲学の体系をつくり出しはしなかった。 鎌倉仏教は、おそらく徳川時代の儒学の一部分と共に、日本史の例外である。しかし法然や道元の宗教哲学は、その後体系として完成されたのではないし、仁斎や徂徠の古学は、その後の思想家に大きな影響をあたえたけれども、より抽象的であり包括的な思惟を生みだしたのではない。日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。


他方、日本人の感覚的世界は、抽象的な音楽においてよりも、 主として造形美術、殊に具体的な工芸的作品に表現された。たとえば摂関時代の芸術家は、仏像彫刻と絵巻物に、そのおどろくべき独創性を発揮していた。しかし声明や雅楽に、日本人の独創がどの程度まで加えられていたかは疑わしい。 たしかに室町時代は能の、 徳川時代は浄瑠璃の音楽をつくったが、一度つくり出された音楽的様式のその後の発展は、わずかなものにすぎなかった。 室町時代に水墨画をとり入れ、狩野派を発展させ、一方では南画に到り、 他方では大和絵の系統を融合させながら、琳派の絢爛たる開花に及び、遂に浮世絵木版を生んだ絵画の歴史とはくらべることができないだろう。日本の文化は、ここでも、楽音という人工的な素材の組合せにより構造的な秩序をつくり出すことよりも、日常眼にふれるところの花や松や人物を描き、 工芸的な日用品を美的に洗練することに優れていたのである。


文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文化の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。 西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。 中世の文化の中心は、文学でも、 工芸的美術でもなく、 宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。 絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、「ミステリー」はその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた。同時代の日本では、仏教の盛時にさえも、 美術が仏教とばかりではなく、世俗的な文学とむすびつき、音楽も宗教的儀式とよりは、劇や世俗的な歌謡の言葉と連なっていた。日本の文学は、少くともある程度まで、西洋の哲学の役割を荷い(思想の主要な表現手段)、同時に、西洋の場合とはくらべものにならないほど大きな影響を美術にあたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたように音楽さえもみずからの僕としていたのである。日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで、代表する。


もちろん中国では、文学と美術(殊に絵画)との関係が書を介して、しばしば密接不可分であった。音楽もまた文学から独立して西洋でのような器楽的発展を遂げたのではない。そのかぎりでは、日中文化の間に、一方から他方への影響を別にして考えても、少くとも表面上の類似がめだつ。中国はすぐれて文学の国であった。しかし二つの文化が決定的にちがうのは、中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。朱子学的綜合は、日本では到底成立するはずがなかった。 ということは、また、徳川時代のはじめに幕府の公式の教学として採用された宋学が、一世紀足らずの間に日本化されたことからも知られる。 日本化の内容は、まさに包括的体系の分解であり、形而上学的世界観の実践倫理と政治学への還元ということであった。


中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、 部分から始めて全体に到ろうとする。 文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。 比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。


日本で書かれた文学の歴史は、少くとも八世紀までさかのぼる。 もっと古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は、少い。 サンスクリットの文学は、今日まで生きのびなかった。 今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興期(一四、五世紀) 前後にさかのぼるにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。


しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代にうけつがれ、新しい形式により置換えられるということがなかった。 新旧が交替するのではなく、新が旧につけ加えられる。 たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに八世紀に三一音綴の短歌であった。 一七世紀以後もう一つの有力形式として俳句がつけ加えられ、二〇世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つであることをやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。 しかし奈良時代においてさえも、 旋頭歌は代表的な形式ではなかった。 徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、 またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮やかにあらわれていた。 一五世紀以来の能・狂言に一七世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに二〇世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。


同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少くともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」、このような美の理想は、そのまま時代と共にほろび去ったのではなく、次の時代にうけつがれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。


このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性(歴史的一貫性)が著しい。と同時に、新しいものが付加されてゆくから、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、 他に例が少いし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたようにみえる。 中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、激しく対決して、一方が敗れなければならない。しかし旧に新を加えるときには、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、 美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく楯の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

(加藤周一『日本文学史序説』「日本文学の特徴について」1975年)




………………



※附記


以下、正確な引用か否かはわからない。ネット上で拾った加藤周一の「日本の庭」(1950年)である。


 日本の庭は、日本人が作り出した芸術の中でも、もっとも大規模で、複雑で、美しい。その美しさは、歴史、様式の変遷、技術上の細部について知られているが、なぜ庭が美しいのか、なぜ古い庭が新しいか、日本的な美しさが普遍的な美しさに通じていることは知られていない。
 例えば、近松は日本では生きていない。それは日本には、今日生きている問題を求めて、日常たえずそこへ立ち返るような古典がないことを意味している。
 戦争中に権力の強制がある時代でも、国学者の発見を蒸し返す程度しかできなかったのだから、権力の強制のない今では、日本精神や日本の古典について語られていない。自国の古典に意味を見出せないものが、他国の古典に意味を見出すことは難しい。
 筆者が庭に興味を持ち始めたのは、ある「印象」である。それぞれの時代に最も深く根ざしている芸術が、最もよく時代を超えて今日に生きている、日本人の感受性と意識の構造に、最も強く離れ難く結びついている作品が、最もよく民族的限界を越えて、普遍的な世界に生きていることは、「印象」から導ける。
 そして、芸術家は、作品を通じてある一定の「印象」を確実に与えるために、自ら所有するあらゆる手段を、自由に支配し、駆使する。
 筆者は、日本の庭に、日本的なものではなく普遍的な「印象」を受けた。

 修学院離宮と竜安寺の庭の対比である。
 修学院離宮の庭は、1)境がない。2)人は自然の中に入るのであって、庭の中に入るのではない。3)庭は庭ではない。4)自然は、古代的、牧歌的、即自的。5)自然的なものと人間的なものは区別されず、6)自然対人間の対立は意識されない。7)自然を模倣する。8)本質をとらえない。9)後水尾院は、離宮で生活していた。
 竜安寺の庭は、1)額縁の中にある。2)人は庭を見るので、庭の中に入るのではない。
3)庭は見られるものにすぎず、額縁に当たる三方の白壁は、目立たない方がよい。4)自然は、近代的、客観的、対自的。5)自然的なものと人間的なものが区別され、6)人間に対する自然として意識される。7)自然を模倣せず、8)人間的な精神的な象徴主義的な方法によって、自然の本質をとらえている。9)相阿弥は庭の中で生活しなかった。
 しかし、それら庭は宇宙ではなかった。しかし、宇宙である庭は存在した。その中に人が身を置くところのものである、その中に入ることができる、境のある世界、自然から区別され、・額縁の中に限られたものでなく、人を包み家を包み一切を包み、単に見られるものではなく、その中で動き、生き、考えることができる庭。精神にとってのある対照ではなく、唯一の宇宙である庭である。

 人は桂離宮の庭に入ることができても、建物や生け垣に遮られてその庭を見ることができない。そして、月見台の上に出て、初めて庭を見るというよりも、もう一つの中にいる自分自身を見出す。「もう一つの世界」には竜安寺の庭のような額縁がない。明らかに境されているが、その境は無限に遠くにある。風景は書院の正面に向かって開いているのでなく、書院が風景の中にある。人は風景に対しているのでなく、人は「第二の自然」の中にある。「第二の自然」は「もう一つの世界」であり「第二の人生である夢」である。そこには、池の水、島、林、田園風景、芝生、並木、苔、芝生などの自然の素材の美しさや、石組み、敷石の幾何学、建築の形式、屋根の曲線、柱の直線、壁のひろがりなどの人間的な形式の美しさなど、この世のあらゆるものがある。しかも、それらがこの世の秩序とは異なる秩序の中にある。第一の現実の自然の秩序を追究し、その根源にある本質的なものを認識し、それを基にして新しく構築して理想的な現実として作り上げた秩序である。
 その夢のような非現実的な世界であるが、覚めた明晰な精神に訴えるような理性的な思考による現実の世界である。タウトは「桂では、目(視覚)が考える」、視覚的な感覚的感動を思考に転換させると言ったが、さらに遠い夢と考えるという行為が一つになっているのが桂離宮の魅力がある。
 桂離宮の庭には、月波楼の海、賞花亭の森と峠、笑意軒の田園風景、松琴亭の山水、新書院の芝生と日常生活の、五つの中心があり、さらに、その全体を一望できる古書院の月見台という一つの中心がある。五つの中心は部分は部分として、それぞれ独立の役割を果たしながら、一つ中心の全体の秩序に奉仕している。私たちはその全体の秩序、統一、調和を実際に見ている。

 桂離宮を作ったのは小堀遠州と言われているが、その弟子を含めて彼の流れをくむもう一人の小堀遠州であろう。彼らは、ダンテやバルザックのように、自然劇の作者として人間の歴史に記憶されねばならない。
 「万葉集」の主な主題の一つは自然である。万葉の詩人は、海を歌い、山を歌い、野と森と季節の移り行きを歌った。シナ文学にない繊細な感受性、インドヨーロッパ文学にない感覚的な鋭さをもって、美しい自然を描いた。その美しさは、自然そのものの中でなく、その自然を美しいものとしてとらえ、表現し、鑑賞するという日本文化そのものの中に理由がある。その美しさは、「枕草子」の感受性の鋭さ、「今昔物語」「徒然草」の観察の細かさ、「新古今集」の美的な自然哲学、能の象徴主義「花」、茶の芸術的生活「さび」に受け継がれたが、伝統として固定化され生命を失う。その後、「奥の細道」「鶉衣」「黄葉夕陽村舎詩」でよみがえりながら次第に衰えて言った。明治になって子規を通じて私小説の世界に流れ込む。しかし、日本文化固有な自然感情や自然の意識が、観察と感受性と表現力において、総合的本質的に現れた「調和」が桂離宮の庭である。
 桂離宮の古書院の月見台が支配していたのは美しい世界、つまり、目を奪うような派手で低次元の華麗さはないが心の心底から味わえる美しい世界、人を圧倒するようなこけおどしの巨大さはないが人の心にしみ通って来る力強い世界、ただ奇をてらうことを目的にした低俗な技巧はないが神業のような技巧を超えている世界である。分析的にとらえたり、法則に還元したり、精神に対立し克服すべき抵抗として素材を芸術家に提供する西欧の自然観ではなく、芸術家を包み芸術的実現の最後の目標としてある美の本質を、日本自然美の本質の全体として「調和」された世界を表現している。これは、日本的なものの中で最も日本的なものであり、最も普遍的なものである。

 エドガアー=アラン=ポオは「アルンハイムの庭」という作品で、桂離宮と同じ庭の概念を描いた。自然より自然的な第二の自然、現実の自然の美しさを人間的な形式の美しさで再構築した自然、最も人間的な精神の自己実現の場所を作り出した。主人公は莫大な遺産をつぎ込んで、最も複雑な芸術、自然の美しさと人間的な美しさをとのすべての結合を可能にする芸術、数学的な法則に支配されしかも法則を超える芸術である庭を作る。庭は、知性によって造られ、法則によって限定されているが、知性のみによっては造られず、法則の限定の内側に無限の可能性を持っている。だから、批評家は庭の持つ知性と法則の領域を超えることができないので、庭を評価することができない。庭は結果としてそこにあるだけである。ポオが言ったように「創造において燃焼する最も強い力は、その結果をもって計るほかない」のである。
 日本の庭造りは、日本の自然の美しさを、その究極まで、自然の本質そのものの美しさまで究めねばならない。その極みにおいて、最も特殊な世界は最も普遍的な世界に通じる。そして、結果である庭を残し、我々に強い印象と感動を与えることに成功した。庭の部分部分について分析することは多くあるが、庭全体の本質として語るべきことは一つ、「庭は美しい」というしかない。(加藤周一「日本の庭」1950年)



日本がどんなに貧しくなったって、日本の庭は守らないとな。神がいるよ、あそこには。



神ならばゆららさららと降りたまへいかなる神かもの恥ぢはする(梁塵秘抄)


純日本的な美しさの最も高いものは庭である。庭にはその知恵をうずめ、教養を匿して上に土を置いて誰にもわからぬようにしている。遠州や夢窓国師なぞは庭の学者であった。そうでない名もない庭作りの市井人が刻苦して作ったような庭に、匿された教養がある。〔・・・〕

小さい庭に雑然と木を植え込んだ庭ほど緊張を失った生活を髣髴せしめるものはない、庭は日本の身だしなみであり、あそこにこそ、小さく貧しい庭であっても、日本の肌身がある。庭をつくるということは贅沢ではなく、生きた父とか母とかの歴史が、すぐ茶の間から見えるという、そんな親しさを身近に感じるとすれば、石一つ鳳仙花一本でも、その家の歴史を物語ってくれるものである。 


すこし凝った庭なら築地の塀だけを見ていてもいい、瓦と土の塀を見ていれば、雑庭風な妄念を去ることができる。しかしここまで行くには、人は死に近づいていることが意味される。人はその生涯において派手な庭をつくり、そしてやがて瓦と土とを終日見ていて、もはや石や灯籠も、花も見なくなったといえば、やっと一人前の庭つくりになったといえよう。庭も何も持っていない人で、いつも庭を頭でつくっているような人がいたら、その人は最後に垣根と土とを見ていて十分に満足するかも知れぬ。天下の名園を見つくした人にはもはや何もいらないはずであった。……

(室生犀星「日本の庭」1943(昭和18)年)