さて前回、1919年生まれの加藤周一の1950年、31歳時に書かれた《日本の庭は、日本人が作り出した芸術の中でも、もっとも大規模で、複雑で、美しい》で始まる「日本の庭」を引用したところで、室生犀星の「日本の庭」(1943年)を読み返してみた。犀星は1889年生まれだから、54歳のときの随筆であり青空文庫にある。
純日本的な美しさの最も高いものは庭である。庭にはその知恵をうずめ、教養を匿して上に土を置いて誰にもわからぬようにしている。遠州や夢窓国師なぞは庭の学者であった。そうでない名もない庭作りの市井人が刻苦して作ったような庭に、匿された教養がある。 |
庭をつくるような人は陶器とか織物とか絵画とか彫刻とかは勿論、料理や木地やお茶や香道のあらゆるつながりが、実にその抜路に待ちかまえていることに、注意せずにいられない。結局精神的にもそうだが、あらゆる人間の感覚するところの高さ、品の好さ、匂いの深さにまで達しる心の用意がいることになる。人物ができていなければ庭の中にはいってゆけない、すくなくとも庭を手玉にとり、掌中に円めてみるような余裕が生じるまでは、人間として学ぶべきもののすべてを学んだ後でなければならぬような気がする。鉄のような精神的な健康もいるし、一茎の花にも心惹かれる柔かい詩人のたゆたいが要り、十人で引く石も指一本で動かす最後の仕上げにも、徹底的な勝利をも目ざしてその仕事につかねばならぬ。はいり込んで行けば生やさしいことは一つとして存在していない。この世界では、もうよかろうという言葉や、いい加減にしておこうということは、忌み嫌われる。進んだら退くことを知らぬ。庭作りの最後は財を滅ぼし市井の陋居に閉息するものが多い。〔・・・〕 |
私は最近庭には木も石もいらないような気がし出した。垣根だけあればいい、垣根だけを見て、あとは土、あるいは飛石を見るか、苔を見るようにして木というものはできるだけすくなくまた石もできるだけ少なくしたいと考えるようになった。何故かといえば、庭で最初に眼につくは垣根であり、垣根は表からも裏からも座敷からも見えるからである。垣がいい垣ならそれだけ見ておればいい、小さい市井の庭ならなお垣だけ見られるようにしたいと考えている。竜安寺石庭の築地の塀があれらの虎の子渡しの石を抱いているのも、築地の塀が利かなかったら、石庭の輪郭と緊張が失われるように思える。市井の庭なら生垣にさまざまな四季の花時を見込んで、生垣仕立にすれば垣根だけで結構見られるのである。小さい庭に雑然と木を植え込んだ庭ほど緊張を失った生活を髣髴せしめるものはない、庭は日本の身だしなみであり、あそこにこそ、小さく貧しい庭であっても、日本の肌身がある。庭をつくるということは贅沢ではなく、生きた父とか母とかの歴史が、すぐ茶の間から見えるという、そんな親しさを身近に感じるとすれば、石一つ鳳仙花一本でも、その家の歴史を物語ってくれるものである。 |
すこし凝った庭なら築地の塀だけを見ていてもいい、瓦と土の塀を見ていれば、雑庭風な妄念を去ることができる。しかしここまで行くには、人は死に近づいていることが意味される。人はその生涯において派手な庭をつくり、そしてやがて瓦と土とを終日見ていて、もはや石や灯籠も、花も見なくなったといえば、やっと一人前の庭つくりになったといえよう。庭も何も持っていない人で、いつも庭を頭でつくっているような人がいたら、その人は最後に垣根と土とを見ていて十分に満足するかも知れぬ。天下の名園を見つくした人にはもはや何もいらないはずであった。…… |
(室生犀星「日本の庭」1943(昭和18)年) |
犀星にはアニミズムーー場合によってはプレモダンも呼ぶ人がいるだろうーーのところがないではないが、実にすばらしい。モダニストの、しかも若書きの加藤周一の文にはまったくない味わいがある。《庭をつくるということは贅沢ではなく、生きた父とか母とかの歴史が、すぐ茶の間から見えるという、そんな親しさを身近に感じる》、《その人は最後に垣根と土とを見ていて十分に満足するかも知れぬ。》等々、あの「寺の庭」(大正七年)ではじめた犀星の魂が見事に息づいている。
つち澄みうるほひ
石蕗の花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭
さらに、1943年の「日本の庭」の十年後の「庭を作る人」にはこうある。64歳の犀星である。
庭というものも、行きつくところに行きつけば、見たいものは整えられた土と垣根だけであった。こんな見方がここ十年ばかり彼の頭を領していた。樹木をすくなく石もすくなく、そしてそこによく人間の手と足によって固められ、すこしの窪みのない、何物もまじらない青みのある土だけが、自然の胸のようにのびのびと横わっている、それが見たいのだ、ほんの少しの傷にも土をあてがって埋め、小砂利や、ささくれを抜いて、彼は庭土をみがいていた、そして百坪のあふるる土のかなたに見るものはただ垣根だけなのだ、垣根が床の間になり掛物になり屏風になる、そこまで展げられた土のうえには何も見えない、彼は土を平手でたたいて見て、ぺたぺたした親しい肉体的な音のするのを愛した。土はしめってはいるが、手の平をよごすようなことはない、そしてこれらの土のどの部分にも、何等かの手入れによって、彼の指さきにふれない土はなかった。土はたたかれ握り返され、あたたかに取り交ぜられて三十年も、彼の手をくぐりぬけて齢を取っていた。人間の手にふれない土はすさんできめが粗いが、人の手にふれるごとに土はきめをこまかくするし、そしてつやをふくんで美しく練れて来るのだ。〔・・・〕 |
つまり彼に最後にのこったものはやはり庭だけなのだ、終日掃きながら掃いたあとのうつくしさが見たいばかりに、そのうつくしさに何かを、恐らく一生涯の落ちつく先をちらとでも見たいのだ、ばかばかしい話だが、そんなふうに言うより外はない。一生涯の落ちつく先を土に見たって何になるといえばそれまでだが、掃いたあとを見かえると、いままでにないものが現われている、毎日掃くのだから落葉とかゴミとかいう些細な固形物すら見当らないのに、やはりよごれがあった。その眼にとまらないものを掃き上げると、そこからべつな澄んだ景色が見えて来ていた。彼はその景色が見たいばかりに掃くのだ、いやなことを心にためておくと、どうにも心の置場のないような不愉快を感じるが、それを書いてしまうとさっぱりする、さっぱりした心持で何かをあらたに受けいれようとする構えに、するどい動きとも静観ともいいがたいものがある、あいつだよ、あんなふうなものが掃いたあとの、土の上に見られるのである。いろいろなものに取り憑かれ、さまざまなものに熱中して見たが、行きついて見るとつまり庭だけが眼に見えて来ていた、朝起きてから夕方まで眼の行くところは庭よりほかはない。ある意味でそれは庭であるよりも、一つの空漠たる世界が作り上げられていて、それが彼を呼びつづけているのだとでも、ふざけて言ったら言えるのだろう。(室生犀星「生涯の垣根」初出:「新潮」1953(昭和28)年) |
《恐らく一生涯の落ちつく先をちらとでも見たいのだ》、《毎日掃くのだから落葉とかゴミとかいう些細な固形物すら見当らないのに、やはりよごれがあった。その眼にとまらないものを掃き上げると、そこからべつな澄んだ景色が見えて来ていた。彼はその景色が見たいばかりに掃くのだ》等々とあるが、毎日掃く仕事には「細い米粒のような雑草」を摘む作業も含まれる。
犀星の熱心な読み手である外村彰の「室生犀星の詩と庭ーー"つち澄み"の美意識」PDFには犀星の娘朝子さんを引きつつこうある。 |
室生朝子(「父の庭」昭和36年)は、父の作った庭には「滑らかな雨気を含んでいる時は、指一本で押えても指紋がつくほどの赤土」に「石ばかりをはめこん」である「土の台座」があったと書く。この「犀星流」の土の庭で「細い米粒のような雑草」を摘み、落葉を拾い、さらに手箒(「お座敷箒」)で掃く作業は「一時間半近くも」かかったという。放置しておけば自然と植物の生える土を「澄」ませるため、父娘は自家の庭の管理保全を怠りなく務めていたわけである。 |
市川秀和「室生犀星 の"終 の住まいと庭"」PDF |
ここで唐突に言うが、室生犀星にとっての庭は「女なるもの」だったのだろう。
庭は髪を結うてゐるひとのようであつた
庭は着ものを着かかつてゐるひとのようであつた
庭は湯にはいらうとするひとの恥らひを見せてゐた
庭は
庭はやさしく涙ぐんでゐるやうであつた
私は庭とけふも話をしてゐた
私は庭の肩さきに凭れてうつとりとしてゐた
私は庭の方でも凭れてゐることを感じた
私は誰よりも深く庭をあいしてゐた
私は
私は庭にくちびるのあることを知つてゐた
ーー室生犀星「春の庭」より 昭和十一年
うすねむきひるのゆめ遠く
杏なる庭のあなたに
なにびとのわれを愛でむとするや
なにびとかわが母なりや
あはれいまひとたび逢はしてよ
ーー室生犀星「杏なる庭」より 昭和十八年
陶器にも女人陶器といふ言葉までつかつてゐる程であるから、たとへば高麗青磁の釉触の面からも、人間にたとへると女のすぐれた肢体が感じられてゐて、それから離れては青磁のうつくしさが完う出来ない。(室生犀星「鬼籍の素陶」 昭和三十二年五月一日「芸術新潮」) |
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ーー《庭だとて風景だとて、結局氏の『生きる希み』が生み出した愛着であるかぎり、結局は人間の女の美しさに還つてゆくのである。》(山本健吉「室生犀星ーー十二の肖像画」昭和三十七年) ……………… 室生犀星は比較的はやい時期に読んだ晩年の名作『杏っ子』の強烈な印象というのはあるがーー娘を「杏子」と名付けたぐらいであるーー、実際により親密な、きわめて近しい作家となったのはごく最近に次の二文を読んでからだ。
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