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2024年7月21日日曜日

理解するとは分類すること、そして分類を拒むもの

 


前回に引き続くが、《理解するとは、分類すること》だよ、社会的になることだ、あるいはリンネの分類学を想起して言えば、科学的になることだ。ただし《分類を拒む》ものがある。


理解するとは、分類することである。一人の女が他の女に似ている点に注目する(「スイもアマイもかみわけた」見方は、そうでなければ、成立しないだろう)。あるいは、一人の男がもう一人の男に似ている点に(「男はみんなこういうものだ」)。しかし愛するとは、分類を拒むことである。その女を愛するのは、他の誰にも似ていないから、つまりかけ替えがないからである(「オレとオマエの仲だもの……」)。故に理解の内容は、社会的であって――社会的でない理解はそもそも成立しない――、愛の内容は、本来非社会的であり、純粋に私的であり、余人に伝え難い。


しかし恋人たちの感情もゆれ動くだろう。ある時の感情が、次の瞬間に、どう変わってゆくのか、たしかな保証はない。相手の心理を忖度しても然り、自分自身の気分を省みてもなおかつ然り。みずからそこにたしかな持続をもとめ、拠りどころを築き、全く衝動的ではない一聯の行動の動機をそこから抽きだすためには、それが「愛」であるとか「恋」であるとかみずからいうほかない。しかるに「愛」にしても「恋」にしても、何かを名づけ、何かをいうためには、言葉を用いざるをえない。しかるに言葉は決して純粋に私的ではなく、社会的なものである。いうことは、社会化することであり、余人を私的空間に引き込むことである。どうすれば余人に伝え難いことを余人に伝えることができるだろうか。


別の言葉でいえば、非社会的なものの社会化は、いかにして可能であろうか。個別的対象の個別性=かけ替えのなさを、切り捨てて分類するのではなく、それを特殊な時と特殊な場所のなかに固定したまま、安定化し、明確化し、その時と場所を越えての意識に対し――それが自分自身の意識であろうと、第三者の意識であろうと――、到達可能なものにするためには、どういう手段を用いることができるだろうか。その手段は芸術的表現である。(加藤周一『絵のなかの女たち』)




精神分析という「下品な」学問はーー精神分析の始まりには愛があるーー、この愛を3分類したんだがね[参照]。




とはいえやっぱり芸術が重要なんだよ、それを忘れちゃならない。



フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており[ l'artiste toujours le précède] 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを[ il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie] 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年)


われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。

Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen

(フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年)




しかしーーここでまた「とはいえ」と言うがーー、中井久夫の分類癖には瞠目させられるね、たとえば身体の分類。さすが生物学者出身としか言いようがない。



◼️中井久夫「身体の多重性」(『徴候・記憶・外傷』所収、2004年)

A 心身一体的身体

(1)成長するものとしての身体

(2)住まうものとしての身体

(3)人に示すものとしての身体

(4)直接眺められた身体(クレー的身体)

(5)鏡像身体(左右逆、短足など)

B 図式〔シューマ〕的身体

(6)解剖学的身体(地図としての身体)

(7)生理学的身体(論理的身体)

(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)

C トポロジカルな身体

(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)

(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体

(11)兆候空間的身体

(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体

D デカルト的・ボーア的身体

(13)主体の延長としての身体

(14)客体の延長としての身体

E 社会的身体

(15)奴隷的道具としての身体

(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)

(17)スキルの実現に奉仕する身体

(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)

(19)表現する身体(舞踏、身体言語)

(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)

(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)

(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)

(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)

F 生命感覚的身体

(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)

(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)

(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体

(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫)

(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)

(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)