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2024年7月24日水曜日

「貨幣のフェティシズムと同様、自我の背後には無しかない」の意味

 

人はみなフェティシスト」の最後のほうがわかりにくかったかね、いくらか割愛した部分がないでもないから補っておくよ、


まずエスは欲動の身体だ。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)


そしてこのエスの欲動身体は不快だから抑圧ーー厳密には抑圧の第一段階の原抑圧ーーせざるを得ない。

不快な性質をもった身体的感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年)


これが自我分裂のメカニズムであって人はみな分裂している。

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


つまり、人は抑圧されたエスの不快な欲動要求と自我のフェティシズムに二分割されている。

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 


我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


これが、「見せかけというフェティッシュが無をヴェールする機能」の意味だ。

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


というのはラカンにとって無はエスだから。


現実界=モノ=無(穴)=エスである。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

さてシンプルに壺の例を挙げよう、つまり現実界の中心にある空虚の存在を表象するものを作り出す対象である。それは空虚にもかかわらずモノと呼ばれる。この空虚は、無として自らを現す。そしてこの理由で、壺作り職人は、彼の手で空虚のまわりに壺を作る。神秘的な無からの創造、穴からの創造として。

Or le simple exemple du vase, …,à savoir cet objet qui est fait pour représenter l'existence  de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide tel qu'il se présente dans la représentation, se présente bien comme un nihil, comme rien.   Et c'est pourquoi le potier, …bien qu'il crée le vase autour de ce vide avec sa main, il le crée tout comme le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.  (ラカン,  S7,  27 Janvier  1960)

忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノと呼んでいる。N'oublions pas […] à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  […] j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03  Février  1960)


そしてこの無なるエスの穴は欲動の穴であり、原抑圧の穴。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


ラカンの無とか穴とかいうのはフロイトの原抑圧の引力の言い換えにほかならない。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


いわばブラックホールの引力だ、そしてこれを覆うのがフェティッシュ。



したがって「フェティッシュは無をヴェールする機能」とは不快なエス(あるいは不快な欲動の身体)をヴェールする自我の機能だよ。


これは柄谷=マルクスの思考と構造的に等価。

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」)


この剰余価値が「人はみなフェティシスト」で示したようにラカンにとってフェティッシュであり、柄谷ももちろん同様。


G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」)


この貨幣のフェティシズムとしてのG′(G+⊿G)こそ剰余価値である。


・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



というわけでフロイトラカンとマルクス柄谷を並べれば次のようになる。




これが「人みなフェチ」の最後にヘーゲルを引用しつつ、自我の背後には無しかないと記した意味だよ。

内面世界を隠蔽していると思われている、いわゆるカーテンの背後には、見られるべき何ものもない (無しかない)[wenn wir nicht selbst dahintergehen, ebensosehr damit gesehen werde, als daß etwas dahinter sei, das gesehen werden kann].(ヘーゲル『精神現象学』1807年)


繰り返せば、「貨幣のフェティシズムと同様、自我の背後には無しかない」。


フェティッシュはみなあるんだからフェティシズムはやむ得ないとしても実体化してしまうのが問題。


貨幣は、たんに価値を標示するものではなく、それを通した交換を通して、すべての生産物の価値関係を調整するものだ。したがって、貨幣は全商品の関係体系の体系性として、すなわち、超越論的統覚 Xとしてある。貨幣は仮象であるとしても、いわば超越論的仮象である。それをたんに否定しても、別の形で必ず残るのだ。市場経済においては、貨幣が実体化されてしまう。すなわち、貨幣のフェティシズム、そして、貨幣の自己増殖としての資本の運動が生じる。というより、ブルジョア経済学者は、それが資本の運動の所産であることを隠蔽した上で、市場経済の優越性を論じているのだ。にもかかわらず、資本に転化するからといって、こうした貨幣による市場経済を廃止してしまえば、元も子もなくなってしまう。かといって、市場経済を認めつつそれを国家によって制御していこうという社会民主主義には、資本と国家を揚棄するという展望などまったく存在しない。彼らは貨幣を「中立化」するが、けっしてそれを揚棄することを考えないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第4章「トランスクリティカルな対抗運動」P454)



これを自我のフェティシズムに置き換えて言えば、「アタシはフェティシストなんかじゃ絶対ないわ!」と自我を実体化してしまっている巷間の皆さんが問題だということになるね。



ニーチェ風に言えば、まずは次の二文だね、

君はおのれを「我 」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる叡智なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである。"Ich" sagst du und bist stolz auf diess Wort. Aber das Grössere ist, woran du nicht glauben willst, - dein Leib und seine grosse Vernunft: die sagt nicht Ich, aber thut Ich. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者Von den Verächtern des Leibes」 1883年)

一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命令する者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈我=自我〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。

insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion. (ニーチェ『善悪の彼岸』第19番1886年)



たとえば「自分の言葉」とか「自分の意見」とかは欲動の身体の覆いに過ぎない、という観点を持てるか否かだな。


私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)



私は、私が知っていること以上のことを常に言ってるんだ。このように微塵も感じたことがない人が何よりもまず自我のフェティシズムの実体化だね(もちろんこれだけではないが)。



もっと卑近に言えば、作家でなくても次のような態度が大事なんだろうよ

私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年)


あるいはーー、

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)


でも「自分の取調べ」ってのはひどく難しいよ、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている Human being cannot endure very much reality》 (中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」)だろうから。


普通は、他人をほじくり返すほうが簡単なんだよ、《他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。》(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)