「人はみなフェティシスト」の最後のほうがわかりにくかったかね、いくらか割愛した部分がないでもないから補っておくよ、 まずエスは欲動の身体だ。 |
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エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年) |
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そしてこのエスの欲動身体は不快だから抑圧ーー厳密には抑圧の第一段階の原抑圧ーーせざるを得ない。 |
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不快な性質をもった身体的感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年) |
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不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
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抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年) |
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これが自我分裂のメカニズムであって人はみな分裂している。 |
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自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。 Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年) |
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つまり、人は抑圧されたエスの不快な欲動要求と自我のフェティシズムに二分割されている。 |
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フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕 幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。 Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年) |
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これが、「見せかけというフェティッシュが無をヴェールする機能」の意味だ。 |
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我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997) |
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フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) |
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というのはラカンにとって無はエスだから。 現実界=モノ=無(穴)=エスである。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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さてシンプルに壺の例を挙げよう、つまり現実界の中心にある空虚の存在を表象するものを作り出す対象である。それは空虚にもかかわらずモノと呼ばれる。この空虚は、無として自らを現す。そしてこの理由で、壺作り職人は、彼の手で空虚のまわりに壺を作る。神秘的な無からの創造、穴からの創造として。 Or le simple exemple du vase, …,à savoir cet objet qui est fait pour représenter l'existence de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide tel qu'il se présente dans la représentation, se présente bien comme un nihil, comme rien. Et c'est pourquoi le potier, …bien qu'il crée le vase autour de ce vide avec sa main, il le crée tout comme le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou. (ラカン, S7, 27 Janvier 1960) |
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忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノと呼んでいる。N'oublions pas […] à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. […] j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03 Février 1960) |
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そしてこの無なるエスの穴は欲動の穴であり、原抑圧の穴。 |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
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ラカンの無とか穴とかいうのはフロイトの原抑圧の引力の言い換えにほかならない。 |
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
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いわばブラックホールの引力だ、そしてこれを覆うのがフェティッシュ。
というわけでフロイトラカンとマルクス柄谷を並べれば次のようになる。
これを自我のフェティシズムに置き換えて言えば、「アタシはフェティシストなんかじゃ絶対ないわ!」と自我を実体化してしまっている巷間の皆さんが問題だということになるね。
たとえば「自分の言葉」とか「自分の意見」とかは欲動の身体の覆いに過ぎない、という観点を持てるか否かだな。
私は、私が知っていること以上のことを常に言ってるんだ。このように微塵も感じたことがない人が何よりもまず自我のフェティシズムの実体化だね(もちろんこれだけではないが)。
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でも「自分の取調べ」ってのはひどく難しいよ、《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている Human being cannot endure very much reality》 (中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」)だろうから。
普通は、他人をほじくり返すほうが簡単なんだよ、《他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。》(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)