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2024年8月20日火曜日

敵は許してやるべきだ、ただし・・・

 

私はしばしば次のハイネを引用してきたがね、とくに宇露戦争が始まってからは繰り返して。

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

Ich habe die friedlichste Gesinnung. Meine Wünsche sind: eine bescheidene Hütte, ein Strohdach, aber ein gutes Bett, gutes Essen, Milch und Butter, sehr frisch, vor dem Fenster Blumen, vor der Tür einige schöne Baume, und wenn der liebe Gott mich ganz glücklich machen will, läßt er mich die Freude erleben, daß an diesen Bäumen etwa sechs bis sieben meiner Feinde aufgehängt werden. Mit gerührtem Herzen werde ich ihnen vor ihrem Tode alle Unbill verzeihen, die sie mir im Leben zugefügt ― ja, man muß seinen Feinden verzeihen, aber nicht früher, als bis sie gehenkt werden. (Heine, Gedanken und Einfälle.)



重要なのは、原人間なる悪魔はフロイトの専売特許ではまったくないことだ、


悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)

人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています。

die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.(フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden、1915年)

戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen. ](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)



真に内省の力がある者はこの結論に必ず至る筈。



私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』1946年)

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』1946年)

ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾『織田信長』1948年)


あるいは、ーー《いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない[Man hat schlecht dem leben zugeschaut, wenn man nicht auch die Hand gesehn hat, die auf eine schonende Weise - tödtet]》(ニーチェ『善悪の彼岸』第69番、1886年)



もっとも末人(最後の人間)は別かも知れないよ、


私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。


災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る。


災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る[ Es kommt die Weit des verächtlichsten Menschen, der sich selber nicht mehr verachten kann.]

見よ! 私は君達に「末人」を示そう[Seht! Ich zeige euch den letzten Menschen.]


『愛って何? 創造って何? 憧憬って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。


そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はノミのように根絶できない。末人は一番長く生きる。

『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。


彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。


病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩き方にも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。


ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。

かれらもやはり働く。というのは働くことは慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。


かれらはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もうだれも統治しようとしない。服従しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。

飼い主のいない、ひとつの畜群! [Kein Hirt und Eine Heerde! ] 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら望んで気ちがい病院に向かう。


「むかしは、世界をあげて狂っていた」ーーそう洗練された人士は言って、まばたきする。


かれらはみな怜悧であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だからかれらはたえず嘲笑の種を見つける[so hat man kein Ende zu spotten]。かれらも争いはする。しかしすぐに和解するーーそうしなければ胃をそこなうからだ。

かれらはいささかの昼の快楽、いささかの夜の快楽をもちあわせている。しかし健康をなによりも重んずる。


「われわれは幸福を発明した」ーーそう末人たちは言う。そしてまばたきする。ーー


(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「序」第5節)



知らないわけじゃないがね、最近は末人ばかりなのを。