いやあ、これは実に優れた動画じゃないかね、
ラカンの「穴」を把握するための傑出した動画、巷間の寝言ラカン派を嘲笑するにもピッタリの啓蒙動画だ。
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.〔・・・〕 |
この穴と原抑圧との関係、これが起源にかかわる問いである。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。 La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse.〔・・・〕 |
この穴は特定の臍における効果である。…われわれは生み出される間に、臍の緒によって宙吊りになっている。瞭然としているのは、母の臍ではなく胎盤によって宙吊りにされていることだ。というのは、人は子宮から生まれるのだから。…臍は聖痕である。 |
C'est effectivement à un ombilic particulier, …que quelqu'un s'est trouvé en somme suspendu en le reproduisant …par la section pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta. C'est du fait d'être né de ce ventre‐là …l'ombilic est un stigmate. (Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975) |
穴とは、トラウマ、喪失、身体の穴でもある。
現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
ラカンは比較的早い段階から首尾一貫している、喪失の穴なるトラウマに関しては。
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20 Janvier 1960) |
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964) |
これがトラウマの神秘のすべてだ(なおフロイトラカンにおいてトラウマは「身体の出来事」を意味するので注意)。
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘のすべて[tout le mystère du trauma]である。すなわち、かつて「A」の形態 [la forme A]を取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させようとして。 Que c'est parce que quelque chose à l'origine s'est passé, qui est tout le mystère du trauma, à savoir : qu'une fois il s'est produit quelque chose qui a pris dès lors la forme A, que dans la répétition le comportement, si complexe, engagé,… n'est là que pour faire ressurgir ce signe A. (Lacan, S9, 20 Décembre 1961) |
このAはもちろん母なる原大他者のAである。 |
全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957) |
大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](Lacan, S14, 10 Mai 1967 ) |
フロイトから抜き出すなら、夢の臍は迷宮、菌糸体であり、事実上の原無意識である。
どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は暗闇に置き残す [im Dunkel lassen]ことを余儀なくさせられることがしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けない夢思想の結び玉 [Knäuel von Traumgedanken]があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。 |
In den bestgedeuteten Träumen muß man oft eine Stelle im Dunkel lassen, weil man bei der Deutung merkt, daß dort ein Knäuel von Traumgedanken anhebt, der sich nicht entwirren will, aber auch zum Trauminhalt keine weiteren Beiträge geliefert hat. |
これはつまり夢の臍[Nabel des Traums]、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいる点なのである。解読においてわれわれがつき当る夢思想は、一般的にいうと未完結なままにしておく他ない。そしてそれは四方八方に向って、われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮[netzartige Verstrickung unserer Gedankenwel]に通じている。この編物のいっそう目の詰んだ箇所から夢願望が、ちょうど菌糸体からの菌[Pilz aus seinem Mycelium]が頭を出しているように頭を擡げているのである。 |
Dies ist dann der Nabel des Traums, die Stelle, an der er dem Unerkannten aufsitzt. Die Traumgedanken, auf die man bei der Deutung gerät, müssen ja ganz allgemein ohne Abschluß bleiben und nach allen Seiten hin in die netzartige Verstrickung unserer Gedankenwelt auslaufen. Aus einer dichteren Stelle dieses Geflechts erhebt sich dann der Traumwunsch wie der Pilz aus seinem Mycelium. |
(フロイト『夢解釈』第7章「夢過程の心理学に向けて」A夢の忘却、 1900年) |
そしてーー、
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、つまり睡眠欲動が生じると正しく言える。睡眠は母胎回帰である[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年) |
なおフロイトは、『夢解釈』の段階では《夢の臍[Nabel des Traums]》を《我々の存在の核[Kern unseres Wesens]》と等置しており、最晩年の『終わりなき分析』では、《欲動の根[Triebwurzel]》と呼んだ。
フロイトにおいて回帰と反復は等価であり、これが欲動の普遍的性質である。 |
以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要) |
そして究極の以前の状態への回帰あるいは反復は、《喪われた子宮内生活 [das verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)であり、ラカンの表現の仕方なら「喪われた胎盤」となる。ジャック=アラン・ミレールが次のように言っているのはこの喪われた胎盤への反復にほかならない。 |
ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。 Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010) |
私は4、5年ぐらい前までは、何度か次の図を示したことがあるのだが、冒頭の動画の迫力には全然負けるね、
これはラカンの次の図に依拠している。
重要なことは、出生後には全きAは不幸にも斜線を引かれたȺとaにり、そうこうしているうちに全きSもこれまた斜線を引かれた$になってしまう不幸が全人間にあるのである。
原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963) |
このせいで、母自体、小さなaになってしまう。 |
母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).] (Lacan, S10, 15 Mai 1963 ) |
ああなんという不幸なことか、なんとかAに戻りたいというのがヒトの原無意識である。 |
子宮内生活は、まったき享楽の原像である[La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite.] (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007) |
心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な母胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
なお夢の臍という菌糸体については、日本では「詩人」中井久夫が実に巧みに表現している。 |
……カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。 菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕 菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。〔・・・〕 菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。 実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。 もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」初出1986年『家族の深淵』所収) |
《「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる》とあるが、匂いの世界に限らずーーフロイトを少しでもマトモに読めばーー、表面に表れているフロイトの欲動二元論は実は欲動一元論であり、《死は愛である [ la mort, c'est l'amour]》(Lacan, L'Étourdit E475, 1970)、つまり《タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous la forme du Θάνατος [Tanathos] ]》(Lacan, S20, 20 Février 1973)であることがわかる。