このブログを検索

2024年9月15日日曜日

ビサーンの陽気さ

 




動画



ビサンは立ち直ったな、「ビサーン Bisan 近況」の場から。


もうどうでもいい、とても疲れているから。何が起ころうと気にしない。何が起こる?死んだらいいし、逮捕されてもいい。今の生活よりはましだわ。... 死んだら、あなたたちを誰も許さない。

"It doesn't matter anymore because I'm so tired. and I don't care what happens. What will happen? If I died it will be good for me, if I get arrested it will be good for me. Anything is better than the life I'm living right now [...] if I die I don't forgive any one of you"


ーーBisan 2024/07/01


「立ち直った」というのは語弊があるかもしれないが。


こっちに近いかもしれないが。


季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。〔・・・〕


もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。 « La gaieté qui n'espère plus », la plus joyeuse car la plus désespérée. Elles voyaient encore une Palestine qui n'existait plus quand elles avaient seize ans, mais enfin elles avaient un sol.(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』1983年)



性根を据えたら女は強いね、おそらく男よりもずっと。


昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)



何はともあれさ、100円だっていいよ、それしかできることはないのだから。



Thank you for your support! If you'd like to contribute to this cause, please click the link paypal.com/ncp/payment/9T… to make a donation. Every bit counts, and your generosity will make a real difference.