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2024年9月14日土曜日

リビドーの経済[Libidoökonomie]


幸福とは、それが可能であると認識される縮小された意味において、個々の「リビドーの経済」の問題である。 ここで万能のアドバイスはない。誰もが、自分が幸せになれる特定の方法を自分で試さなければならない[Das Glück in jenem ermäßigten Sinn, in dem es als möglich erkannt wird, ist ein Problem der individuellen Libidoökonomie. Es gibt hier keinen Rat, der für alle taugt; ein jeder muß selbst versuchen, auf welche besondere Fasson er selig werden kann.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)


このリビドーの経済[Libidoökonomie]は次の文脈のなかでの記述である。


厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。

Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)




つまり不快がないと真の幸福はないということだ。これはニーチェにおいて繰り返し語られる話でもある。

学問の目標について

なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? 

Vom Ziele der Wissenschaft. Wie? Das letzte Ziel der Wissenschaft sei, dem Menschen möglichst viel Lust und möglichst wenig Unlust zu schaffen? Wie, wenn nun Lust und Unlust so mit einem Stricke zusammengeknüpft wären, dass, wer möglichst viel von der einen haben will, auch möglichst viel von der andern haben muss,(ニーチェ『悦ばしき知識』12番、1882年)

人間は快をもとめるのではなく、また不快をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大》である。

Der Mensch sucht nicht die Lust und vermeidet nicht die Unlust: man versteht, welchem berühmten Vorurtheile ich hiermit widerspreche. Lust und Unlust sind bloße Folge, bloße Begleiterscheinung, – was der Mensch will, was jeder kleinste Theil eines lebenden Organismus will, das ist ein Plus von Macht. (ニーチェ『力への意志』第702番、1888年)


先のフロイトの「可能であると認識される縮小された意味においての」とは、この不快を可能な限り避けるレベルでの、リビドーの経済[Libidoökonomie]を言っている。


経済の語源はギリシア語のοικονομίαであり、家計管理を意味する。要するにリビドーの経済とは「リビドーのやりくり」だ。


リビドーは「エロス=愛の欲動=性欲動」である。

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。

Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) 

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


つまりリビドーの経済とは性欲動のやりくりだね。


人はみないろいろな手段でやりくりしてんだよ。


プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

性欲動の発展としての共感と人類愛[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes.](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )


もっともこれらはすべて代理満足で、真の幸福は死ぬまで訪れないのだけれど。



繰り返せば、リビドーのやりくりとは欲動のやりくりであり、何よりもまず、欲動断念に伴う快の獲得だ。


リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)


この代理満足としての快の獲得[Lustgewinn]がラカンの剰余享楽にほかならない。

フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕

剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

言説の効果の下での享楽断念の機能としての剰余享楽[Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する。

Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance (Lacan, S16, 15  Janvier  1969)


別名、穴埋めである。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


だが穴は十分には埋まらない。

剰余享楽としての享楽は、穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


フロイトラカン的には、人はみなダナイデスの娘たちのようにして生きてるんだよ、人それぞれ、学問やら芸術やら美やら、あるいは共感やら人類愛やら、さらには金儲けやら他者搾取やら戦争やらの代理満足に励みつつ。






享楽はダナイデスの樽である[la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

人が自らを防衛できないもの、密封しえない「ひとつの穴の穴埋め」がある。ダナイデスの樽モデルの穴の穴埋めである[on ne peut pas se défendre qu' il est « bouche un trou » qui est infermable, qui bouche un trou du modèle tonneau des Danaïdes](J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 14/11/2007)