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2024年9月1日日曜日

核戦争だって? 心配するな、ハッタリだよ

 

前回に引き続き、タッカー・カールソンによるジェフリー・サックス直近インタビューより。


◾️ジェフリー・サックス-タッカー・カールソンインタビュー、2024年8月31日

Jeffrey Sachs: The Looming War With Iran, CIA Coups, and Warning of the Next Financial Crisis

With Tucker Carlson 切り抜き動画

ロシアが戦場で負けていたら、核戦争へのエスカレーションが起こるだろう。 そして、評論家は皆言う、そんなことは心配ない、ハッタリだ、と。 私はそのような人々の無知に深く憤慨している。

一般的に、人々が無知であっても、私はそれを恨んだりはしない。 しかし、私の孫を危険にさらすような無知には憤りを感じる。 核戦争の心配はいらない、それはハッタリだ、と言って孫を危険にさらす連中だ。 なぜなら、そんなことを言う人は現実を何も理解していないからだ。〔・・・〕


例の終末時計によれば、1947年以降の全期間において、私たちは今日、核によるハルマゲドンに最も近づいている。

Because if Russia were losing on the battlefield, we would be seeing escalation to nuclear war. And everyone in punditry that says, oh, don't worry about that, that's a bluff. I profoundly resent the ignorance of those people.

Generally, when people are ignorant, I don't resent it. I try to help, but I resent the ignorance when it endangers my grandchildren, that's it. And they endanger my grandchildren by saying, don't worry about nuclear war, that's a bluff. And that, I don't wanna hear from anybody because anyone that says that understands nothing about the reality of-…

We are the closest ever to nuclear Armageddon today during the entire period since 1947 according to this Doomsday Clock.


これは人間のサガだね、何度も繰り返し引用してきたが、へーゲリアンのジャン=ピエール・デュピュイが言うように。


数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。

これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。


私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。

自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」PDF)


ーーいやそれどころか核カタストロフィの瀬戸際にいることさえまったく感じとっていない「平和な善人」が跳梁跋扈しているようにさえ見える。



善人どもの生存条件は嘘である、言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、 お人好しの人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではなに見ようとしないことである。

Die Existenz-Bedingung der Guten ist die Lüge―: anders ausgedrückt, das Nicht-sehn-wollen um jeden Preis, wie im Grunde die Realität beschaffen ist, nämlich nicht der Art, um jeder Zeit wohlwollende Instinkte herauszufordern, noch weniger der Art, um sich ein Eingreifen von kurzsichtigen gutmüthigen Händen jeder Zeit gefallen zu lassen.〔・・・〕

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第4節、1888年)

私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である[Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall.]


――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。[― Nun ist dies Nicht-sehn-wollen, was man sieht, dies Nicht-so-sehn-wollen, wie man es sieht, beinahe die erste Bedingung für alle, die Partei sind, in irgendwelchem Sinne:]


すなわち、党派人は必然的に嘘つきとなる[der Parteimensch wird mit Notwendigkeit Lügner].。…党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者』第55章 、1888年)




話を戻せば、『ツナミの小形而上学』で日本でも知られるようになったデュピュイは、ギュンター・アンダースのノアの寓話をとても好んでおり、彼はその著作で何度も触れている。

世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。ノアは古い粗衣をまとい、灰を頭からかぶった。これは親密な者を失った者にしか許されていない行為である。誰が死んだのかと周りの者たちに問われ、「あなたたちだ、その破局は明日起きた」と彼は答える。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、 死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を裏返すため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。その晩、大工と屋根職人がノアの家を訪れ、「あの話が間違いになるように」箱舟の建造を手伝いたいと申し出る。……(ギュンター・アンダース、ノアの寓話、摘要)



ジェフリー・サックスや先に掲げたスコット・リッターはこのノアに近い役割を果たそうとしているのだろうが、それも事実上、あまり効果がないように見える。世界は「大丈夫だ、そんなのハッタリだよ」マインドで支配されている。子供や孫の近未来を心配する家族の絆がひどく弱くなったこともあるだろうし、人々が世界資本主義に支配されていることも大きな原因だろう。ーー《大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ]》(マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)



………………

※附記

◾️プーチン発言 於ロシア外務省指導部との会談、2024年6月14日 ソース

西側諸国の身勝手さと傲慢さが、現在の極めて危険な状態を招いた。  われわれは許容できないほど引き返せない地点まで近づいてしまった。

The selfishness and arrogance of Western states have led to the current extremely dangerous state of affairs.  We have come unacceptably close to the point of no return.  

эгоизм и высокомерие западных государств привели к нынешнему крайне опасному состоянию дел. Мы подошли недопустимо близко к точке невозврата. 

最大の核兵器保有国であるロシアに戦略的敗北を強いるという呼びかけは、西側諸国の政治家たちの極端な冒険主義を物語っている。彼らは自らが作り出す脅威の大きさを理解していないか、あるいは単に自らの免責と排他性を信じることに夢中になっているかのどちらかだ。このどちらも悲劇を招きかねない。

Calls to inflict a strategic defeat on Russia, which has the largest arsenal of nuclear weapons, demonstrate the extreme adventurism of Western politicians.  They either do not understand the scale of the threat that they themselves create, or are simply obsessed with the belief in their own impunity and in their own exclusivity.  Both of these can result in tragedy. 

Призывы нанести стратегическое поражение России, обладающей крупнейшими арсеналами ядерного оружия, демонстрируют запредельный авантюризм западных политиков. Они либо не понимают масштабы угрозы, которую сами порождают, либо попросту одержимы верой в собственную безнаказанность и в собственную исключительность. И то, и другое может обернуться трагедией.


▶︎Putin's Full Speech at Foreign Ministry