このブログを検索

2025年3月8日土曜日

なんだ、また大量の馬鹿を刺激してしまったようだな

 

なんだ、また大量の馬鹿を刺激してしまったようだな、代理戦争の話はもはやコンセンサスになっていると思っていたが、村民のあいだではそうではないことを知り得てとってもタメになったよ。お礼に糖果入りの壺を送っとくよ。


小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


………………

蓮實重彦はフローベールの親友だったマクシム・デュ・カンをめぐる論で、1863年に大量の馬鹿が新聞を読む時代が始まった、と記している。


一八六三年の二月一日に一部五サンチームで売り出された小紙面の『ル・プチ・シュルナル』紙は、その安易な文体と情報の単純さによって、日刊紙としては初めて数十万単位の読者を獲得することに成功する。一八五〇年当時、パリの全日刊紙をあわせても三十万程度であったことを考えれば、一紙で三十五万の読者を持つ『ル・プチ・シュルナル』紙の創刊は、言葉の真の意味でマス・メディアと呼ばれるにふさわしいものの出現を意味することになる。〔・・・〕ここでの成功が、みずからの凡庸さを装いうるジャーナリストの勇気に負うものだという点を見落としてはなるまい。人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第2部「Ⅷ 文学と大衆新聞」1988年)


これを受け入れるなら、1995年に大衆にインターネットが導入がされるようになって以来、特に21世紀以降は大量の馬鹿が書くようになった時代である。


大量の馬鹿の時代とは具体的にはどういうことか。蓮實は面白い言い方をしている、記号の記号の流通の時代だと。



……いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通形態の変化なのである。少数の特権者によって発信された記号が多数の匿名者によって受信されている限り、大衆化現象は現実のものとはならない。特権的な知は、きまって堅固な階層秩序によって文化を保証しているからである。それは、欠落を埋めるかたちで改めて秩序維持に貢献するだろう。大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。〔・・・〕読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。〔・・・〕それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。


この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ〔・・・〕。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第3部「Ⅻ 通俗小説の時代」)


この蓮實の書は、柄谷行人が主に中野重治論である「死語をめぐって」(1990年)で指摘しているが、「芸術家」は「知識人」に置き換えうる。つまり「凡庸な知識人の肖像」でもある。例えば上の引用の最後の文なら、「まがりなりにも知識的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない」と。これこそまさに現在、SNS装置で典型的に起こっていることである。


何度も掲げているが、クンデラ=フローベールの言い方なら愚かさは進歩しているのである。大衆新聞の馬鹿が読む時代からインターネットの馬鹿が書く時代へと、ますます愚かさが進歩している。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



この愚かさから免れる方法はあるのか。ここで蓮實の書に戻れば、人はこの愚かさとともに暮らさざるをえない時代に生きている、とある。



大衆化現象が数の増大と無縁でないのは当然の話だが、それに対する批判者が多数者に対する少数者という視点に固執した場合、事態はとめどもなく虚構化するのみである。すでに何度も繰り返したように、特権的な少数者と匿名の大衆という構図は、いわゆる近代以前の啓蒙的な知の階層構造を何とか維持しようとする保守的な姿勢を量産することにしかつながらないからである。いまや、人がある記号を口にするのは、それを他人に先がけて知ったという特権意識からではない。発信と受信とが知の欠落を埋めるというかたちでは進行せず、すでに充当されている知をめぐって、それが内容を欠いているが故にすでに流通している交換の体系に一体化しようとする欲望を共有するための資格として、それが口にされているにすぎない。これは倫理的な価値判断の介入する余地のない新たなコミュニケーションの一形態であり、それに共感を覚えると否とにかかわらず、人はそれととともに暮らさざるをえない時代に生きている。少数の特権に逃れてそれに顔をそむけることこそは、倫理的な堕落だとさえいえるだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第3部「Ⅻ 通俗小説の時代」)


あるいは、「『凡庸な芸術家の肖像』への終章」には、《時代そのものが人に凡庸たれと要請しているのであり、しかもその凡庸さは、誰かまわず、ほどよい知を提供してまわる》とある。


それにしても、である。ーー《耐え難いのはもはや重大な不正などではなく、日々の凡庸さが恒久的に続くことだ[L'intolérable n'est plus une injustice majeure, mais l'état permanent d'une banalité quotidienne.] 》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』1985年


実に耐え難い時代である、奴隷の時代、愚か者の群れの時代。


平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。

Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage.  (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851)

1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。

89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853)



最低限、自覚的になろうではないか、「私は愚かである、私は凡庸である」と。ところが愚かさの進歩とともに、これを感受する精神まで失われてしまったようだ。例えば、次のような連中が巷では溢れ返っている、《どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第一部 Ⅵ「凡庸さの発明」)

ここであらためて強調しておけば、この記事を記している私ももちろん自らの愚かさに自覚的である、蓮實がそうであるように、ーー《なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。》(蓮實重彦『些事へのこだわり』2024年1月18日

とはいえ私はいまだ晩期高齢者に至っていないので、「愚かさ」苛立つことしきりなのである。そのときどうすべきか。凡庸さから僅かでも逃れるためには、要約しないことである。


蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。〔・・・〕ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。〔・・・〕僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。〔・・・〕


流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦-柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988年)


私がツイッター装置などをひどく嫌うのは、あれは形式的にほとんど常に要約せざるを得ないようにできている装置だからである。凡庸化装置。紋切型装置。クンデラ曰くの《紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険》をイヤというほど見てきた。


この共同体が容認する物語への翻訳としての要約=凡庸化=紋切型は、蓮實重彦がおおいに影響を受けたロラン・バルトの言い方ならジヴァロ化である。


本質規定からいって、教師の言述は要約することができる(あるいは、できなければならない)という性格を帯びる(これは国会議員の演説と共通する特権である)。周知のように、わが国の学校では、テクストの要約と呼ばれる訓練が行わている。この呼び方が、まさに、要約のイデオロギーをいい当てている。すなわち、一方に、《思想》という、メッセージの対象であり、行動の要素、科学の要素である。他動的な、あるいは、批判的な力があり、もう一方に、《文体》という、贅沢、閑暇、したがって、無用なものに属する装飾がある。文体から思想を切り離すことは、いわば、言述から聖職的な衣をはぎ取ることであり、メッセージを世俗化することである(そこから、教師と代議士とのブルジョワ的結合が生ずる)。《形式》は圧縮し得るものであると考えられているのえあり、この圧縮は本質的に害を与えるものとは考えられていない。実際、遠い所、つまり、わが西欧の境界を越えた所では、生きているジヴァロの頭と縮小したジヴァロの頭との差異はそれほど重大だろうか。

訳者註)ジヴァロ:アマゾン河上流のインディアン。戦いの後、敵の首を切り、その皮をはぎ、食物の煎じ汁につけたり、熟した石で加工し、拳大の大きさに縮小するという。

教師にとって、自分の講義中、生徒の取る《ノート》を見るのはむずかしい。彼はほとんど見ようとしない。慎みからからか(なぜなら、この作業の儀礼的な性格にもかかわらず、《ノート》ほど個人的なものはないからである)、あるいは、こちらの方が当たっていそうだが、同族の者に加工されたジヴァロのように、死んで、物質的で、しかも縮小された状態にある自分を見るのが怖いからであろう。パロールの流れの中から取られた(差し引かれた)ものがどこにも当てはまる言表(公式、文)であるのか、推論の要点なのか、わかりはしない。どちらの場合にも、失われたものは付加物であるが、そこにこそ言語活動の賭け金が投ぜられているのである。要約はエクリチュールの拒否である。

逆の結論として、要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種のシニフィアンの実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」1971、沢崎浩平訳)



最後にもうひとつ蓮實から掲げておこう、われわれは「何かを理解したかのような気分」にならないことである。


何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。


だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にすぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のうちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦『齟齬の誘惑』1999年)



だが現在、ほとんど皆「何かを理解したかのような気分」で済ましている。かつて批評家佐々木敦氏がうまいことを言っていた、《「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエントに、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。》(佐々木敦『ニッポンの思想』2009年)ーーこう言われれば、あなた方は、ほとんど皆自らのコンビニエント病に気づかざるを得ない筈である。


以上がカイエ流の糖果入り壺である、アシカラズ。