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2025年7月24日木曜日

南方熊楠ーー荷風よりも具体的・実践的な「森の谷間」の話

 


熊楠は荷風並みだな、不覚だったね、今まで知らなくて。


元来淫情強きは女の常、一ツよくなり出したとなつたら、男のよしあし、好嫌ひにかかはらず、恥しさ打忘れて無上にかぢりつき、鼻息火のやうにして、もう少しだからモツトモツトと泣声出すも珍しからず。さうなれば肌襦袢も腰巻も男の取るにまかせ、曲取のふらふらにしてやればやる程嬉しがりて、結立の山髪も物かは、骨身のぐたぐたになるまでよがり盡さねば止まざる熱すさまじく、腰弱き客は、却つてよしなき事仕掛けたりと後悔先に立たず、アレいきますヨウといふ刹那、口すつて舌を噛まれしドチもありとか。〔・・・〕


一度気をやれば暫くはくすぐつたくてならぬといふ女あり。又二度三度とつゞけさまに気をやり、四度目五度目に及びし後はもう何が何だか分らず、無暗といきづめのやうな心持にて、骨身のくたくたになるまで男を放さぬ女もあり。男一遍行ふ間に、三度も四度も声を揚げて泣くやうな女ならでは面白からず。男もつい無理をして、明日のつかれも厭はず、入れた侭に蒸返し蒸返し、一番中腰のつゞかん限り泣かせ通しに泣かせてやる気にもなるぞかし。  (永井荷風『四畳半襖の下張』)



いや熊楠は荷風よりも具体的・実践的だーー、





一枝も こころして吹け 沖つ風 わか天皇のめてまし森そ(南方熊楠)


雨にけふる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ(昭和天皇)



ーー天皇に講釈したのかね、神島の「森の谷間」の話を。ーー《問題となっている女なるものは、神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu]》 (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)



谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)




◼️南方熊楠「処女を悦ばす妙薬」

 よって説き出す一条は、紫稍花(ししょうか)で、これは淡水に生じる海綿の細い骨である。海から海綿を取り出し、ただちに水につけて面を掃くと、切られ与三郎のように30余ヶ所もかすり傷がつく。それは海綿には、こんなふうの細いガラス質の針があり、それを骨として虫が生きているのである。その虫が死んでもその針は残る。ゆえに海綿を手に入れたら苛性カリで長く煮てこの針を溶かしきり、柔らかくなったのを理髪店などに売り用いるのだ。

痛いというのと痒いというのとはじつは程度の違いで、海綿の海に生ずるものは件の針が大きいため突くと痛む。しかしながら、淡水に生じる海綿は至って小さなものなので、その針は微細で、それで突かれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたように、ここで感じここで消えるということが止まらない。すなわちハシカなどにかかったように温かくて諸所微細に痒くなり、その痒さが移動して一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感じるのだ。それを撫でるとほんとうに気持ちがよい。

むかし男色を売る少年を仕込むのにその肛門に山椒の粉を入れたのをも、このように痒くてならないところを、金剛(男娼における妓丁のようなもの)が一物を突き込み撫で回して快く感じさせ、さてこのことを面白く感じさせるように仕込むのだ。

ちょうどそのように、この淡水生海綿の微細な針をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増にはさらに粗く、と精粗の別を必要とする)貯えておき、さて一儀に臨み、一件に付けて行なうときは、恐ろしさも忘れるほどに痒くなる(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その痒さが種々に移動するのをいうのだ)。


時分はよしと1上1下3浅9深の法を活用すると、女は万事夢中になり、今までこんなよいことを知らなかったことが悔しいと一生懸命に抱きつき、割れるばかりにすりつけ持ち上げるものである、と説教すると山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色のよだれを流し、「ハハハハハ」「フウフウフウ」「それはありがたい」などと感嘆が止まない。初めの威勢はどこへやら、小生を御祖師さんの再来のように三拝九拝して、「寄付帳はそこへおいていらっしゃい、いずれ差し上げましょう、まことにありがとうございました」と出口まで見送られた。

 それから15日に山本氏から寄付金をもらい、25日朝、岡崎邦輔氏を訪ね寄付金1000円を申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話をしたところ、「僕にもくれないか」とのこと、君のは処女でないから難しいが何とか一勘弁して申し上げましょう」「何分よろしく」「今夜大阪へ下るからそこでも世話しましょう」とのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女に効く方法をしたため、速達郵便で差し出した。

 それには山本農相などは処女を好くようだが、処女というものは柳里恭も言ったように万事気詰まりで何の面白さもないものである。それなのに特にこれを好むのは、その締まりがよいためである。


さて、もったいないが仏説を少々聴聞させよう。釈迦が菩提樹の下で修行して、まさに成道しようとするとき、魔王波旬(※はじゅん:「悪者」を意味する悪魔の名※)の宮殿が振動し、また32の縁起の悪い夢を見る。そのため心が大いに楽しまず、こうなっては魔道はついに仏のために破られるのだと懊悩した。魔王の3人の女は、姉は可愛、既産婦の体を現じ、次女は可喜、初嫁婦の体、三女は喜見と名づけ山本農相専門の処女である。この3人の女は釈迦の所に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となって戯れかかる。


最初に処女の喜見が何をしたって釈尊の心は動かない。次に次女の可喜が昨夜初めて男に逢った新婦の体で戯れかかると釈尊もかつての妻との新枕を思い出し、少し心が動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心は大いに動き、もう成道を止めて抱きつこうかと思ったが、諸神の擁護で思い返して無事を得た、とある。


だから処女は顔相がよいだけで彼処には何という妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに34,5のは後光がさすとの諺通りで、やっと子を産んだのが最も優っている。それは「誰が広うしたと女房小言言い」とあるように、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処が広くなる。西洋人などはとくに広くなり、我輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥居の間でステッキ1本持ってふりまわすような、何の手応えもないようなのが多い。だから洋人は1度子を産むと、もう前からしても興味を覚えず、必ず後ろから取ることが多い(支那では隔山取火という)。


しかしながら子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかもイカが鰯をからみとり、タコが梃に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわすなどの妙味がある。膣壁の感度がますます鋭くなっているため、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すので、盗賊の防ぎにもなる理屈である。



………………


ここでもうひとつ、私の好みの野坂昭如の『エロ事師たち』から抜き出しておこう。

……「肝心のとこがもう一つけけん。そやけどよく唸りはる女や」


スブやん、情けなく溜息をつけば、伴的はなぐさめるように、「京都の染物屋の二号はんや、週に二へんくらい旦つく来よんねん、丁度この二階やろ、始ったら天井ギイギイいうよってすぐわかるわ、もうええ年したおっさんやけど、達者なもんやで」

ちょいまち、とズブやん大形に手を上げ伴的をとめる、女がしゃべったのだ。


ーーあんた、御飯食べていくやろ、味噌汁つくろか。


男はモゾモゾと応え、ききとれぬ。と、突拍子もない声がズブやんの鼓膜にとびこんできた。


ーーお豆腐屋さん! うっとこもらうよオ。


男再び何事かしゃべり、女おかしそうに笑う。やがてドタドタとアパートの階段を乱暴にかけ上る音。ドアのノック、咳ばらい。


ーーそこに置いといて頂戴、入れもんとお金は夕方に一緒でええやろ、すまんなア。

しば静寂の後、再び床板きしみ女は唸り、ズブやんあっけにとられるのを、伴的ひと膝にじりよって、「やっとる最中に飯のお菜たのみよったんや、ええ面の皮やで豆腐屋も」(野坂昭如『エロ事師たち』1963年)



もっともこの書で重要なのは次の箇所かもしれない。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1963年)


……………



野坂昭如が言っているのは、ラカン的には次の通り。


女なるものは存在しない。女たちはいる。だが女なるものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)


女なるものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女なるものを夢見るのです。女なるものはシニフィアンの水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J.-A. MILLER「エル・ピロポ El Piropo 」1979年)

女なるもののシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女なるものは存在しない」の意味である[il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”]

この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである[Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. ](J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)


ここで私のファルスΦに戻ろう。この大きなファルスΦはまた幻想の最初の文字である。C'est bien en quoi je reviens à mon Φ, mon grand Φ là, qui peut aussi bien être la première lettre  du mot fantasme.  


このファルスΦの文字は音声の機能の関係に位置付けられる。一般に考えられている事とは異なり、ファルスの本質は音声の機能であり、このファルスは男を代替する。…そして別のシニフィアン、私が唯一、複合的マテーム文字S(Ⱥ)、斜線を引かれた大他者で示し得たものは、ファルスとはまったく異なる何ものかである。


Cette lettre situe les rapports de ce que j'appellerai une fonction de phonation… c'est là l'essence du Φ,  contrairement à ce qu'on croit …une fonction de phonation qui se trouve être substitutive du mâle -… signifiant que je n'ai pu supporter que d'une lettre compliquée de notation mathématique …à savoir ce que j'ai écrit en dessous, là :  S(Ⱥ), S de A barré c'est tout autre chose.   〔・・・〕

人間は愛を交わすのではない。結局、人間は愛を交わすのである、自らの無意識と。それ以外の何ものでもない。Ça n'est pas ce avec quoi l'homme fait l'amour,  c'est-à-dire en fin de compte avec son inconscient,  et rien de plus.〔・・・〕


私のS(Ⱥ)、それは「大他者はない」ということである。無意識の場処としての大他者の補填を除いては。mon S(Ⱥ).   C'est parce qu'il n'y a pas d'Autre, non pas là  où il y a suppléance… à savoir l'Autre comme lieu de l'inconscient〔・・・〕


人間のすべての必要性、それは大他者の大他者があることである。これを一般的に神と呼ぶ。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».

女なるものを"La"として示すことを許容する唯一のことは、「女なるものは存在しない」ということである。女なるものを許容する唯一のことは神のように子供を身籠ることである。La seule chose qui permette de la désigner comme La…  puisque je vous ai dit que « La femme » n'ex-sistait pas, …la seule chose qui permette de supposer La femme,  c'est que - comme Dieu - elle soit pondeuse. 


唯一、分析が我々に導く進展は、"La"の神話のすべては唯一の母から生じることだ。すなわちイヴから。子供を孕む固有の女たちである。

Seulement c'est là le progrès que l'analyse nous fait  aire, c'est de nous apercevoir qu'encore que le mythe la fasse toute sortir d'une seule mère  - à savoir d'EVE - ben il n'y a que des pondeuses particulières.   (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


……………



ラカンは女なるものは存在しないと言ったなら、はっきりしているのは、母は存在することである。母ははいる[Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. ](Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)


母として[quoad matrem]、すなわち《女なるもの》は、性関係において、母としてのみ機能する[…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »](Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

男は、間違ってひとりの女に出会い、その女とともにあらゆることが起こる。つまり通常、「性交の成功が構成する失敗 」が起きる[L'homme, à se tromper, rencontre une femme, avec laquelle tout arrive : soit d'ordinaire ce ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel.] (Lacan, Télévision, AE538, Noël 1973)

男は女に興味などない、もし母がなかったら。[un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère.] (Lacan, Conférences aux U.S.A, 1975)

男は女と寝てみることだ、そうしたら分かる。それで充分だ。逆も一緒だ[il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement.]( Lacan, S24, 16 novembre 1976)



………………


なお荷風は母について次のように記している。

断腸亭日記巻之二大正七戊午年 (荷風歳四十)


八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。


大正八年十一月十五日。威三郎不在と聞き、西大久保に赴き慈顔を拝す。鷲津牧師も亦来る。始て一家団欒の楽を得たり。


大正十二年九月四日。爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し。下谷鷲津氏の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すと聞き、徒歩して上野公園に赴き、処ゝ尋歩みしが見当らず、空しく大久保に戻りし時は夜も九時過ぎなり。疲労して一宿す。この日初めて威三郎の妻を見る。威三郎とは大正三年以 後義絶の間柄なれば、其妻子と言語を交る事は予の甚快しとなさゞる所なれど、非常の際なれば已む事を得ざりしなり。


昭和十二年 荷風散人年五十九


三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


四月三十日。くもりて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病すゝみたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、出でゝ浅草を歩み、日の暮るゝをまち銀座に飯し富士地下室に憩ふ。いつもの諸氏の来るに会ふ。是日平井程一氏{佐藤春夫門人}書を寄す。拙作『濹東』 についての批評なり。


    余と威三郎との関係


一 威三郎は余の思想及文学観につきて苛酷なる批評的態度を取れるものなり。


一 彼は余が新橋の芸妓を妻となせる事につき同じ家に住居することを欲せず、母上を説き家屋改築の表向の理由となし、旧邸を取壊したり。余が大正三年秋余丁町邸内の小家に移りしはこれがためなり。邸内には新に垣をつくり門を別々になしたり。


一 余は妓を家に入れたることを其当時にてもよき事とは決して思ひ居らざりき。唯多年の情交俄に縁を切るに忍びず、且はまた当時余が奉職せし慶応義塾の人々も悉く之を黙認しゐたれば、母上とも熟議の上公然妓を妻となすに至りしなり。


一 彼は大正五年某月余の戸籍面より其名を取り去りて別に一家の戸籍をつくりたり。これによりて民法上兄弟の関係を断ちたるなり。


一 彼は結婚をなせし時其事を余に報知せず。(当時余は築地に住居せり)故に余は今日に至りても彼が妻の姓名其他について知るところなし。


一 余が家の書生たりしもの{先考の学僕なり}の中、小川守雄米谷喜一の二人は母上方へ来訪の際、庭にて余の顔を見ながら挨拶をなさゞりことあり。是二人は平生威三郎と共に郊外遠足などなし居りし者なり。


一 地震{大正十二年}の際、余母上方へ御機嫌伺に上りし時、威三郎の子供二人余に向ひて「早く帰れ早く帰れ」と連呼したり。子供は頑是なきものなり。平生威三郎等が余の事をあしざまに言ひ居るが故に子供は憚るところなく、此の如き暴言を放ちて恐れざるなり。


一 以上の理由により、余は母上の臨終及葬式にも威三郎方へは赴くことを欲せざるなり{威三郎一家は母上の隠居所に同居なせるを以てなり}



九月九日。 晡下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すと云ふ。共に出でゝ銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井と別れ、不二地下室にて空庵小田某他の諸氏に会ふ。雨やみて涼味襲ふがごとし。


〔以下欄外朱書〕母堂鷲津氏名は恒文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒町に生る儒毅堂先生の二女なり明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す一女三男を産む昭和十二年九月八日夕東京西大久保の家に逝く雜司谷墓地永井氏塋域に葬す享寿七十六。追悼。泣きあかす夜は来にけり秋の雨。秋風は今年は母を奪ひけり。


私はこのように記した荷風を知って以来、彼の書き物を異なった目で読むようになった。

ーー《大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。》(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏)